まずはこの辺は読んでみよう

しがない読書感想ブログです。teacupが終了したため移転することと相成りました。

小嶋茂稔「光武帝」山川出版社(世界史リブレット人)

世界史リブレット人の新刊は後漢の建国者、光武帝こと劉秀をあつかいます。日本史,中学歴史で奴国の使者がやってきたときに「漢委奴国王」印を授けた皇帝として光武帝(劉秀)は登場するので,どこかで名前は聞いた、習ったという人がほとんどのはずです。なお、金印については寸法が当時の1寸と正確にあうことなどから、後漢の工房で作られた真印であるという通説を採用しています。

本書では、劉秀の生涯をたどりつつ、彼がどのような背景を持つ人物であったのか、彼がどのようにして新から後漢に至る時代にいき、後漢の成立と天下統一を如何に成し遂げたのか、そして後漢の国家体制や対外関係をどのように整備したのか、これらの事柄をコンパクトにまとめていきます。

まず、後漢というと前漢後半より続く豪族台頭の流れの中、皇帝と豪族の連合政権的な性格を持つ王朝として位置づけることが多いです。劉秀自身もそのような豪族層の出身であり、群雄割拠の時代にライバル(彼らを見ると、王莽の時代以降、地方長官の地位を利用しつつ地方で自立し,事態を静観しながら勢力を拡大・維持していた者が多い模様です)を倒しながら統一を達成しています。

そして統一後の支配からは豪族の私利私欲追求を抑えつつ農民達への圧迫を緩和するといった姿勢は十分に見られます。後漢初期は民情が安定したというのもこのような対応の影響でしょう。なお、劉秀による統一に際し、建国の功臣として「雲台二十八将」がよくでてきますが、彼らは統一後は重職についた者はほんのわずかであるということが指摘されています。功臣をあえて重用せず彼らに力を持たせないようにしたのか、それとも功臣達がしくじることでそれまで築いてきた者を失わせたくないと思ったのかは定かではありません。ただ、政治的配慮と個人的配慮どちらもあったようにも思えます。

さらに後漢を王莽によりいったん完成した「古典国制」を継承する形で漢の復興を進めたという指摘も為されています。「古典国制」の構成要素は多岐にわたりますが、本書では宰相の地位に関する「三公」制と地方支配に関する「十二州牧」制について、三公の地位低下や州牧あらため刺史への変化と支配体制整備の関係を扱っています。前漢末から見られた「古典国制」と「漢家故事」の路線の対立という背景のもとどのような国家体制の整備を進めたのかを一部の点から見ていく感じです。

そして、儒教の国教化と言うことが後漢ではよく出てきますが、劉秀もまた王莽同様讖緯思想を重視していたことが指摘されます。讖緯思想の影響を受けていたのは彼だけではなく、当時の群雄たちの多くに見られる現象であることも触れられています。

その他、対外関係についてもまとめられていますが、光武帝の時代は内政に重きが置かれてはいますがそれなりに他国との関係もあったことが触れられています。そして、奴国の使節がやってきたことについて、朝鮮半島楽浪郡と何らかの形で関係を持っていた北九州諸国のなかで、奴国の支配者が周辺諸国に対し有利な地位に立つために後漢に使者を送ったというのが一般的な理解かとおもいます。

奴国の朝貢に関して、別の視点から見た説も紹介しています。それによると中国内部での慶事(北郊完成の慶事)にあわせ、楽浪郡の役人が奴国に朝貢を促したというものであるという、役人の権力者に対する「忖度」の結果ということになります。朝貢は皇帝の統治がうまくいっていることを示す有効な手段の一つというところでしょうか。

光武帝の生涯をまとめた本自体が貴重だとおもいますし、近年の研究動向を盛りこみながらまとめられており、このあたりについて関心がある人にはまず読んでみて欲しいと思う一冊です。

マギー・オファーレル(小竹由美子訳)「ルクレツィアの肖像」新潮社

物語の出だしは1561年、主人公であるルクレツィアが死んだ年、人里離れたところにある砦を舞台に夫と二人きりの食卓で彼女は夫に殺されることを予感しながら卓についているところから始まります。その後、過去の話と砦での様子が交互に入れ替わるように展開していきますが、一体何故夫に殺されると思うようになっていくのか。そこに至るまでに何があったのか。

シェイクスピアの妻を題材とした「ハムネット」をだした著者による、近世の女性を主人公とした小説がまたでました.今度の主人公はコジモ大公の娘ルクレツィア、その肖像がのこされているものの歴史上ではフェラーラに嫁いで早世したと言うことだけが残っている人物です。

一家の中でかなり変わった子どもとして育ち、やがて絵の才能を開花させていく子ども時代、早世した姉のかわりにフェラーラ公アルフォンソに嫁ぐことになる経緯、華やかな外見の下に様々な思惑やしがらみのもとでもできうる限りのことを試みながら生きていく様子など、わずか16年という短いルクレツィアの生涯をほんのわずかな史実を豊かに膨らませながら描き出していきます。

この物語でのルクレツィアは、母親や兄妹とはうまくいっている感じは無いのですが、色々な物を見通す鋭い感覚や観察眼、豊かな感性を持ち、召使いにも分け隔て無く接する、そして虎のような強さを芯の部分に持ちつつ、しがらみの多い世界でそれを巧みに隠しながら生きているという人物だと思いながら読みました。下絵を描いてその上にまた別の絵をかさねていくかのような感じでしょうか(そういう感じの絵の話が作中にも出てきます)。

そして、彼女が育ったメディチ家の宮廷は、この時代故の制約(妻は世継ぎを産むことが求められる等々)はもちろんあるのでしょうがかなり「開けた」感じのところです。宮廷において妻に求められるのは世継ぎを産むことであり、ルクレツィアもフェラーラではそのことを周りから求められることになりますが、フィレンツェフェラーラの宮廷は全く別物のように描かれています。当時の支配者コジモは娘達に対しても高度な教育を施し、妻とも重要な案件を話し合ったりするなど、女だからと言うことによる制約が比較的少ない世界としてかかれています。

ルクレツィアが自分を殺そうとしているとみているフェラーラ公アルフォンソについては置かれた状況や立場にかなり縛られ,苦悩しているようにも感じました。個人としてのアルフォンソはルクレツィアと出会い、結婚に向かう頃は優しくなかなかに魅力的そうな人物として書かれていますし、ルクレツィアへの贈り物が型どおりではない胸白貂の絵であることなど、人間としてはなかなか魅力的なところがあるようにも描かれています。

個人としては如何に魅力的であったとしても、君主として君臨する、家中を取り仕切りまとめる、そして家を存続させる、こうしたことからは逃れられる訳もなく、「個人」としてのアルフォンソをおさえ「支配者」としての振る舞いが求められています。自分の地位や公国を守らねばならず、自分が支配者であることを絶えず誇示し、召使いや身内に対しても容赦ない対応を取るところが結婚後に目につくようになります。

そんな彼はルクレツィアにも自分に従い「世継ぎ」を生むことを求め、世継ぎのためとなればルクレツィアを縛り付けるようなこともいとわない姿勢が目につきます。刺激が良くない旨のアドバイスを聞けば絵に触れる機会を奪ったり、髪を切ったりしたかと思えば、全く別方向の対応が良いと聞くと転地療法をしようとしたりと、何でもありな人物です。

しかし彼はルクレツィアの中に自分に従わぬ何かがいることを感じとります。終盤の彼にとって物言わぬ肖像画のほうが彼女本人よりも望ましいもののようにも見えますが、自分のコントロールできる形で手許に置いておけるものだと思ったからでしょう。

興味深い登場人物としてアルフォンソにつかえる従兄弟のバルダッサーレと言う人物がいます。アルフォンソの側近として彼がやれと命じられたことは殺人も含め何でも行う、支配のための道具のような人物ですが、ルクレツィアに対してはじめから好意的とは言いがたい様子がみられる(もちろん宮廷では礼儀正しく振る舞っているようですが)人物ですし、ルクレツィアも彼が最初から敵意を抱いていることを感じ取り、1561年の描写では彼は間違いなく自分を殺しに来ると思っている様子が見られます。

バルダッサーレがルクレツィアに対しはじめから何故そんな友好的でないのか、その理由について明確に語っている感じではないのですが、彼にとって自分とアルフォンソの間に割り込む夾雑物、邪魔な存在、それがルクレツィアだったのでしょうか。今まで自分が占めていた場所を奪いかねないものとして彼女を警戒したのかなと思いながら読みました。アルフォンソと彼の関係性がどのようなものなのか、そこまで深く何か書いているという感じではありませんが、色々と考えを巡らせる余地がそこにはありそうです。

終盤、ルクレツィアが下した決断と取った行動と結末についてはこれで良かったという思いがする一方で、ついてきた召使いがどうなったのか気になるところではあります。彼女が様々なしがらみからのがれて獲得した自由も、結局誰かを犠牲にすることに依って得られたのだとするならば、それはそれで不幸なようにも思えます。彼女が意図してそうしたわけではないのですが、なんとなく苦さの残る爽快な結末というところでしょうか。ほんのわずかな歴史的な事柄からこの物語を膨らませて描き出す著者、先にとりあげたシェイクスピアの妻を主人公にした作品も読んでいたいですし、それ以外にも別の作品があるようなので、それも読んでみたいと思います。

 

姜尚中(総監修)「アジア人物史4 文化の爛熟と武人の台頭」集英社

アジアの古代、中世の歴史を見ると、外戚が台頭する時代や武人の台頭が見られる時期が見られます。日本史では摂関政治院政期の武士の台頭と平氏政権、鎌倉幕府の登場と言う具合で現れてきます。またこの時期は文化的に東部ユーラシアでは独自の文字を発展させる国もあります。本書では南アジア(チョーラ朝、チャールキヤ朝)、東南アジア(アンコール朝、パガン朝、島嶼部のクディリ王国)、西アジア(ヌールッディーン、サラディン、バイバルスを中心に)の人物も取り上げていますが、東アジア関係の事例が多くなっています。

本巻は藤原道長からスタートしますが、道長と彼を取り巻く人々が取り上げられており、来年度大河ドラマの軽い予習にちょうど良さそうです。その後は院政、そして「愚管抄」の著者慈円まで扱われています。日本の鎌倉幕府についてはそれほど取り上げていませんが、高麗武臣政権について一章をあてています。武臣政権の中身まで知らない人が多いと思いますが、日本と高麗で違う道を進んだところに,両者の社会的背景や政治のあり方の違いが見られる内容となっています。このような内容が一般書でまとめられているのはありがたいことです。

日本の摂関政治から始まるこの巻では高麗で外戚として権勢を振るった仁州李氏も登場します。高麗と日本で外戚勢力が権勢を振るった時期が見られますが、両者の間には色々と違う点がある(藤原氏が父系氏族集団としてまとまっているが高麗の方ではそこまでのまとまりでない、そもそも天皇の生前上位が結構ある日本と王の終身制があたりまえの高麗では条件が違う等)ということを指摘しています。比較史的な視点をとるとまた色々と見えてきます。

宋については司馬光朱熹徽宗といった宋の学術・芸術・思想を扱えば必ず登場するメンバーに加えて多くの人に愛好される詞を残した女性詩人の李清照をとりあげています。北宋南宋の転換期という波乱に富んだ時代を生きた女性の生涯に感銘を受ける人も多いのではないでしょうか。そして、彼女の評価について、朱熹が大成した朱子学の影響で後世の評価が下がる(その一方で別の女性詩人が死後評価されるのも朱子学的価値観による)というところに前近代の女性に対する制約も見えてきます。過去の出来事ではありますが、過去を振り返りつつある事柄について今の我々が果たしてどうなのか、何をどうすべきか考えることは必要だろうと思うのですが、どうでしょうか。

個人的に本シリーズでは女性について多く取り上げています。宋についてはこの前までたまたまテレビドラマ「大宋宮詞」を見ていた関係で劉太后をもっと取り上げても良かったのではないかと思うのですが,それは欲張りすぎでしょうか。

姜尚中(総監修)「アジア人物史11 世界戦争の惨禍を超えて」集英社

アジア人物史の11巻は20世紀、世界戦争に関わる時代に生きた人々を扱いつつ歴史を描こうとしていきます。内容構成を見ると20世紀前半、第2次世界大戦前の時代が中心となる人物と、第2次世界大戦後の世界での活動が中心となる人が色々と混ざっています。また、特定の個人にかぎらず、一つの組織(京城帝大、台北帝大に関係する人々)として扱われているところもあれば、昭和天皇とその時代という具合で非常に多くの人物が登場する章もあります。

本書は女性や思想・文化系の人を結構多く扱ってくれているのですが、帝国日本に抗した女性達と言う内容の章(最近ミッドウェー関係の本が文庫になった澤地久枝さんもでてきます(感想執筆時点で数少ない存命中の人です))や、李香蘭が扱われた章があるあたりはちゃんと考えているなと思います。

思想や文化、学術系を扱うと言うことで言うと、かつてあった旧帝大の2つがどういう意図で設置されたのか、そこに所属した研究者がどのような役割を果たしたのかと言うことにも触れられています。台北は南洋支配との関わり、京城は朝鮮支配、そして「文化政治」の時代に向かうなかで民族運動や外国の関与の機先を制するという意図、そのような背景で生まれた帝国大学ですが、そこで活動した人のなかに(特に台北のほう)その後の現地情勢にも関わる人がいるというのは興味深いものがあります。

その他、中国の自由主義者ということで胡適にくわえて陳寅恪がとりあげられていました。最近唐に関する著作を色々と読んでおり此方でも感想を書いていますが、陳寅恪というと唐について「関朧集団」について論証を進めた歴史学者ということで名前を見かけることが多い人物です。本書ではそのあたりについて詳述しているわけではありませんし、伝記的な内容でもないのですが、彼の学問と中国における自由主義の関係を詳述する内容となっています。

そのほか、ガンディーについても彼の自伝をきりくちに、彼の考え方の変化や運動の展開をおうという形でかいていたり(夏目漱石が色々と悩んだ問題についてロンドン滞在時は全く悩んだ形跡がないようです。また、かれはチャルカーは全く無縁な階層の人です)、韓国の財閥の興隆に関する記述等も興味深いところです。

西アジアについてはどうしても薄い感じがするのですが、モサデグとパフレヴィー2世についての伝記が読めるのはありがたいところです。どちらも世界史ではほんのちょっと名前と業績が出るだけですが、彼らの背景を知ることができ助かりました。

非常にページ数も多く扱われる人物の数も多い巻ですが、いろいろな切り口で人物について迫っています。

キム・イファン、パク・エジン、パク・ハル、イ・ソヨン、チョン・ミョンソプ(吉良佳奈江訳)「蒸気駆動の男」早川書房

スチームパンク」というと、内燃機関が存在せず蒸気機関により様々なものが動く世界を舞台に展開されるSFのジャンルということで理解していいのかと思います。イギリスのヴィクトリア朝なんかがよく出てくるところでしょうか。しかし本書では蒸気機関により動くものが朝鮮王朝の建国の時点で既に関わっている、そして蒸気機関が王朝の社会生活や政争にも大きく影響を与えているという設定で世界が構築されています。

5人の作家の短編集であり、掲載された作品は全て異なる時代ではありますが、この全てにその名前が登場したり姿を現すのが汽機人(蒸気機関で動く人造人間とでも言えば良いでしょうか)の都老と言うキャラクターです。

収録されている作品は、終盤に蒸気機関搭載パワードスーツを用いて女性が大活躍する「朴氏夫人伝」、奴婢として生まれ,奴婢の主人公が汽機人の技術のおかげでいつのまにかに主人との関係に変化が生じ境遇がかわっていた「君子の道」、中宗没後の時期に設定された疑獄事件の真相はいかにという感じの「蒸気の獄」、蠱毒の呪いに関して調べていた主人公が思わぬ形で悲惨な結末を迎える「魘魅蠱毒」、そして朱子学の価値観をインストールされ一切の忖度無く働く王の側近(実は汽機人)が儒家の思想では割り切れない感情を知った途端バグを起こす「知申事の蒸気」の5本です。

何れも朝鮮王朝時代を舞台とした話ですが、蒸気機関をめぐり疑獄事件も発生するなど、両班たちのあいだではこれを抑えようと言う意見が結構出てきます。蒸気機関を使えば便利になりよいことずくめにも思えますが、これを庶民に使わせると彼らが力を持ってしまい良くないのではと懸念する声もあれば、女真や日本にこれが知られると脅威となるといった声もあると言う具合です。

この時代の身分制や男女の性別役割などの制約の下で、蒸気技術は支配される側の人々が用いており、支配する側はそれを抑えようとしている場面が結構目につきます。支配する側の両班層たちは、既存の社会の仕組みや朝鮮王朝を取り巻く国際関係を変動させるような事態は何としても避け、今ある社会を維持し自分たちの地位を保っていくこと,それを何よりも優先しているようにも思えます。

朝鮮王朝時代に蒸気機関がもたらされていたらどうなるのかというアイデアが非常に面白い一冊です。5つの物語の後には年表形式のまとめがあり、色々な時期に蒸気で動くものが現れ、用いられていると言う展開になっています。この年表部分もなかなか興味深い内容です。年表の最後が大院君による鎖国政策なのですが、このようなことが実際に出来ていたらどうなったのでしょう。

 

バート・S・ホール(市場泰男訳)「火器の誕生とヨーロッパの戦争」平凡社(平凡社ライブラリー)

ヨーロッパの歴史を見ていくと、中世末期に火器が使われるようになり騎士の没落が進んだといった記述が教科書などでみられましたし、今でもそのようなイメージが強いと思われます。火器の使用は14世紀初めには実現していますが、いきなりそれによって火器が戦争の主力兵器となったわけではなく、火器中心の戦争になるまでには長い時間がかかりました。

本書は火器が登場してから戦争の主力兵器となるまでの長い年月を通じ,どのような変化が生じたのかを描いていきます。火器が登場する前の中世ヨーロッパの戦争について最初にあつかい、イングランド長弓隊や騎兵、槍兵といった兵種がどのような形で用いられていたのかと言ったことから話が始まります。そのような世界に火器が登場し、やがて戦場で多く使われるようになりますが、実際の運用を見ていると初期の頃はあまり効果的でないと感じるところがあります。

火器がヨーロッパの戦場に投入され始めた14世紀から15世紀、いかにして火器の威力を増すのか、とにかく大きい大砲を作ってみたり、砲身をやたらと多くしてみたりということがおこなわれています。レオナルド・ダ・ヴィンチも考えた多砲身の火砲というのはアイデアとしては面白いのでしょうけれど、それが実戦で役に立つかというとなんとも微妙なもののようです。実際の戦場での火器運用をみるとどうもうまくいっている感じではない(特に野戦)。火器の進歩(銃身が長くなるなど)は火薬の進歩が進んで初めて可能となっていくもので、それまではなかなかうまくいっていないことも示されています。

そして、フス戦争や百年戦争末期、レコンキスタ終結期の戦いでは火器が重要な役割を果たすようにはなってきますが、それでもなお銃身の内側はライフリングも基本的にはない滑腔式の火器であり、射出された弾丸の速度や威力もあまり安定しない(しっかりと作られた胸甲で意外と防げたりする)などの問題もあるのと、実際の戦場での火器の運用についてもまだまだ工夫の途上という様子も見られ、火器の登場で全てが決するという状況に至るまでにはまだ時間がかかるところがある様子もうかがえます。

しかしながら、築城術の変化や軍隊規模の拡大、そしてホイールロック式のピストルで武装した騎兵の登場と重騎兵の消滅(著者はホイールロック式ピストルを備えた騎兵の登場を高く評価しているようです)など、軍事技術やそれをささえる制度(兵を集める方法や軍を維持するために必要な資金の調達も含む)の発展も進み、ヨーロッパの戦争が徐々に変質していくことがうかがえます。中世から近世のヨーロッパ軍事史、技術史を扱った本として面白いのでお勧めしたいと思う一冊です。

7月の読書

7月になりました。

感想をため込んでいるものをアップしてから7月に読んだ本の感想は書くことになります。

結構ためているのでいつになるやら。

 

永田雄三「トルコの歴史(上)」刀水書房:読了

マギー・オファレル「ルクレツィアの肖像」新潮社:読了

姜尚中(総監修)「アジア人物史4 文化の爛熟と武人の台頭」集英社:読了

 

上半期ベスト

2023年も半分が終わりますが、ここまでのベストを掲載します。なおここに掲載した本のなかで、2冊ほど感想がないものがありますが、感想は書き上がり次第7月にアップします。

今回は12冊です。

 

バート・S・ホール「火器の誕生とヨーロッパの戦争」平凡社平凡社ライブラリ)

キム・イファン(他)「 蒸気駆動の男 」早川書房

諫早直人・向井佑介(編)「馬・車馬・騎馬の考古学」臨川書店

ディオドロス「アレクサンドロス大王の歴史 」河出書房新社

杉本陽奈子「古代ギリシアと商業ネットワーク 」京都大学学術出版会

新見まどか「唐帝国の滅亡と東部ユーラシア 」思文閣出版

ローラン・ビネ「文明交錯」東京創元社

森部豊「唐  東ユーラシアの大帝国」中央公論新社中公新書

井上文則「軍と兵士のローマ帝国岩波書店岩波新書

ピエルドメニコ・パッカラリオ、フェデリーコ・タッディア「だれが歴史を書いているの?」太郎次郎社エディタス

ディーノ・ブッツァーティブッツァーティのジロ帯同記」未知谷

ニー・ヴォ「塩と運命の皇后」集英社集英社文庫

 

途中、5月と6月がなかなか感想を書く余裕がないまま終わってしまいましたが、まずまず読めた方でしょうか。7月以降がどのようになるかは分かりませんが,上半期ベストはこんな感じです。

諫早直人・向井佑介(編)「馬・車馬・騎馬の考古学 東方ユーラシアの馬文化」臨川書店

前近代世界のユーラシアの歴史を考えるとき、馬及び騎馬遊牧民の存在が重要であると言うことはつとに指摘されてきています。騎馬遊牧民の国家が広大な領域を支配し、交易を活発化させたり、農耕民の世界との間で様々な交渉がみられたことも世界史でよく触れられています。

本書は騎馬遊牧民の活動が活発で、大帝国が生み出された東方ユーラシア世界において、馬がどのように利用されてきたのかを考古学の成果を中心に用いながら明らかにしていきます。まず、最初の内容は馬の家畜化後、車輛の利用や戦車の登場、そして騎乗技術や道具の出現とそれの拡散、モンゴル帝国において数少ない馬を犠牲獣とする祭祀があつかわれます。

さらに、本書ではかなりの部分を中国における馬文化についての記述が占めています。古代中国における戦車から騎馬への移行と、中国における馬の育成、騎馬の導入や鞍、鐙の登場と伝播についてなどが最近の発掘成果もまじえて語られています。

そして東アジアでの伝播についても、朝鮮半島や日本における馬の文化が語られています。朝鮮半島における馬の生産の他、奈良盆地の事例をもとにした論文ものっており、さらには馬文化の伝播と植生について、馬文化の伝播と環境について論じた項目も見られます。

本書はユーラシア大陸東部、主に中国の事例を中心にしつつ朝鮮半島や日本の話も展開されています。扱われている内容はかなり興味深いです。鞍や鐙といった騎乗のために必要な道具がどのような発展を遂げたのかということを考古学の成果などをもとにあきらかにしていますが、三国志の時代、呉の丁奉の墓から出てきた遺物がどうも中国では非常に古い段階の鐙らしいということなどが明らかになっているようです。このあたり今後の研究の進展に期待したいところです。さらに、チンギス=カンの祭祀のために馬が犠牲として捧げられているということについては長年モンゴルで発掘調査を行っている著者の成果の一端がうかがえます。

また、近年の考古学の世界では自然科学の研究手法も当たり前のように使われています。たとえば、馬の歯のエナメル質のストロンチウム同位体を分析することによって馬の産地を調べることや、炭素同位体をしらべて馬の食性をしらべるといった具合の研究は行われ、論文も色々と残されています。本書でもそのような調査手法が駆使されています。このような調査や研究のあり方を見ると、単純に文系とか理系と言った分け方が難しい時代に入ってきたことがうかがえます。

今回は東部ユーラシア世界における馬の利用が中心ですが、西部ユーラシアを対象とした同様の書籍が出るとさらに良いのではないかと思います。西アジア地中海世界、ヨーロッパ、そしてアフリカといった地域での馬の利用についても色々と調べて見ると面白いのではないでしょうか。

姜尚中(総監修)「アジア人物史10 民族解放の夢」集英社

アジア人物史10巻は19世紀から20世紀、帝国主義の時代にアジアの人々がいかに対応していったのかを,非常に広い範囲の人物を取り上げながら描いていきます。扱われる人物の幅の広さは他の巻と同様に非常に広く、政治に関係した人物だけでなく、思想・文化に関することもふれられています。非常に内容豊富であり全てを扱うのは難しいので、いくつか興味を引いたところを取り上げつつ感想を書こうと思います。

最初のところで朝鮮半島の民族運動について3章分ほどあてています。朝鮮の民族運動というと三・一独立運動の高揚がまずとりあげられますが、民族運動に対してどのような態度を取るのか,色々と難しいものがあったことを感じさせられる話が尹致昊の伝では展開されています。尹致昊の日記が最近東洋文庫で邦訳の刊行がスタートしていますが、日本とどのように関わるのか、世界史教科書に見られるような抗日一色ではない複雑な色合いを感じる人物たちが人物伝で扱われています。植民地支配にどう向き合うのか,色々な形があることが分かる内容です。

また、あまり多く扱われることがない清末以後のモンゴルや19世紀アフガニスタン、さらに琉球について扱った章もみられます。モンゴル史やアフガニスタン史、琉球史,イスラム世界における女性運動家の活動などそれぞれの歴史を扱った本では読むことが出来る内容だとは思いますが、これらの歴史についても人物を中心に据えつつ描かれています。このあたりについて一冊の本の中でコンパクトにまとまっている記述が読めるのはありがたいです。

思想や文化関係の人物、様々な分野において活躍した女性も多く取り上げられていることは本シリーズの特徴ですが、中国文学について魯迅だけでなく張愛玲をセットで取り上げていたり(魯迅とともに文学革命で出てくる胡適は別の巻でとりあげられています)、夏目漱石のほかに柳田国男与謝野晶子もあつかっています。世界史用語の人物などをみていると男性がおおく、政治に関係する人が中心になっているところもあります。より世界の歴史を広く色々な視点から描くという試みは評価されてしかるべきでしょう。

また、この時代の民族運動の活動家などをみていると、日本にもやってきたアブデュルレシト・イブラヒムなど非常に広い範囲で活動している様子が窺えます。こうした人々を軸に据えて近代の歴史を描き出すと、世界のつながりやある場所で始まったことに対して別の場所でどう対応しているのかなどがわかり、一国史的な歴史記述とはひと味違うものがかけるところはあるかとおもいます。

夏目漱石与謝野晶子など日本も含めアジアの様々な人物を扱いながら、近代西洋由来の事物(女性解放や民族自決など)にアジアの人々がどう向き合っていくのか、帝国主義の時代にどう対応していたのかを扱っています。扱われる人物になじみがなく、それ故に手に取らないという人もいるかもしれませんが、ちょっとそれはもったいないかなと思います。なじみのないパートが読みにくいということは正直なところありますが、何かを知ろうと思ってさらに読み進むとまた違う世界が開けるのではないでしょうか。

6月の読書

6月になりました。思ったほど本を読めなかった5月からどう変わるか。

こんな感じで本を読んでいます。

 

イ・ソヨンほか「蒸気駆動の男」早川書房:読了

姜尚中(総監修)「アジア人物史4」集英社:読了

バート・S・ホール「火器の誕生とヨーロッパの戦争」平凡社平凡社ライブラリ):読了

諫早直人・向井佑介(編)「馬・車馬・騎馬の考古学」臨川書店:読了

ディオドロス(森谷公俊訳註)「アレクサンドロス大王の歴史」河出書房新社

20世紀末から21世紀の日本でアレクサンドロス研究を担ってきた森谷先生は最近大王に関する史料の邦訳をまとめて単行本に出したり、東征路の実地検分を元にイランでの遠征路などを復元しようとするなど、様々な活動を展開しています。そうした活動の一つとして、これまで紀要にて発表してきたディオドロス17巻の訳と註もあります。それが遂に単行本として刊行されました。

アレクサンドロス大王の研究ではローマ時代に書かれた文献にも依拠しながら研究を進めざるを得ないというのが実情です。主要史料として利用可能な大王伝としては、かつては「正典」とみなされてきたアッリアノスについては大牟田章先生による膨大な註のついた邦訳とそれを簡略化した岩波文庫があり、クルティウスとユスティヌスは京大学術出版会の西洋古典叢書から読めるようになっています。そしてプルタルコスは森谷先生が以前訳註をだしています。そんななか、ローマ時代に書かれた大王に関する文献のなかで、今まで邦訳がなかったディオドロスの邦訳が詳細な註とともに出たことは実にありがたいことです。

本書の内容は従来紀要に連載されてきたもので(間で一時中断が有り、その間にイランでの実地調査を行ってイランでの東征路を調べていました。それもまた「アレクサンドロス大王東征路の謎を解く」(河出書房新社)として刊行されています)、完結したのは結構前のことだったと記憶しています。その時の連載を一冊にまとめ、さらに最近のマケドニア史やアレクサンドロス研究の成果も盛りこんでアップデートしたものが本書です(例えば「古代マケドニア王国史研究」(東京大学出版会など)。紀要論文の時と比べて記述が増えている箇所(例えば、アッタロスを殺害したヘカタイオスについての考察が増えていたりします)、新たな研究成果を盛りこんだ箇所(インドの侵攻ルートについて、著者自身が実地調査を行って得た成果が反映されています)が結構見られます。

本文の訳文は読みやすく、註も充実しています。ディオドロス本文については東征軍の編成についてやへファイステイオンの葬儀などディオドロスにおいてのみ詳しく書かれている事柄がいくつかあります。これらのことについては他の大王伝と併せて読むなど慎重に読む必要はありますが、貴重な情報源です。また、同じ訳者によるプルタルコスの大王伝についても同様ですが、マケドニア史についての事柄はもちろん、ディオドロスがペルシアの事柄やギリシア本土の事柄なども扱っている関係で、いろいろなことについてちょっとした事典のような感じで読むことができます。

本書におけるアレクサンドロスの評価について、権力の高みにあって高慢にならぬよう思慮と自制を発揮し、寛大な態度で不幸なものにも接するようにという教訓を見て取れる箇所があります。彼の叙述を見ていると支配者は状況に応じ恐怖や力の行使もやむを得ないと見ているところもありますが、支配者の性質を考えたとき、傲慢になることなく寛大さや自制というものをいかに発揮するか、読者に考えさせたいという所でしょうか。また、ローマ時代のアレクサンドロスについては徐々に暴君化・堕落という書かれ方もありますが、全体としてディオドロスはアレクサンドロスに対しては肯定的な書き方をしているようにみえます。

本書の巻末にはディオドロスの来歴や「歴史叢書」の構成とその後の評価の変遷、研究の進展、そしてディオドロスの歴史書の特徴についてまとめた解説があります。本文の内容もさることながらこの部分が非常に貴重であると思います。完成版が出る前にすでに一部の内容が流布するなど、「海賊版」のようなものが出回っていたこと、生前には完成しておらずどうやら校正不十分な状態だった可能性があること(よく言われるディオドロスの年代や内容の不正確なところはこれが原因ではないかと考えられるようです)、なかなか興味深い事柄が取り上げられています。

そして、何より重要と思われるのがディオドロスの執筆姿勢でしょうか。ディオドロスというと、古典史料の切り貼りでオリジナリティもなく、所々不正確、信用できない歴史家という評価が以前よりなされていましたし、その傾向は今でも強いようです。しかしその一方で、彼が単に切り貼りをしたのでなく独自の基準を持ち史料を集め、圧縮して叙述し、自分の見解を付け足し練り上げているという見方も最近ではみられますし、道徳的有用性を目的としつつ様々な記述をみて概ね一致する説にしたがうが、両論併記的な対応もする、素材の配列とバランス、特に演説を多用せぬよう注意するといったことがあげられています。様々な書籍の統合・編纂により作られる「普遍史」に独創的な調査研究と同じものを求めるのはお門違いという感じもします。扱う範囲の広さや作業の大変さなどをみるに、彼の執筆作業や書籍の状況をみると、現代において一般向けのグローバル・ヒストリー系書籍を一人で書くというのが近い感じでしょうか。

また、彼の独自の見解に関連して、戦いの描写についてディオドロスの関心が戦いについても戦闘の前後や敗れた側の戦いぶりや武勇、巻き込まれた非戦闘員の悲惨な運命の方に向いていることが指摘されています。その立場からは、戦争と暴力に関する問題、戦争が文明を発達させるよりそれを破壊するものであり、それを否定的に書くことで次世代の価値観と思想によい影響を与えようという意図があるという説や、読者の哀れみと同情に訴え征服者の野蛮な行為に対し読者が批判的姿勢を取るよう促すという説が紹介されています。最近ディオドロスについての研究が進んでいるため、これらの説の当否についても今後検討されるのだと思いますが、勝者の栄光をたたえるだけでなく戦争の被害者の視点も含んでいるというところはアッリアノスなど他の大王伝とは違う所だと思います(いっぽうで、イッソスの会戦後、マケドニア軍によるペルシア貴顕の女性に対する行為のように、読者の受けを狙い意図的に性的刺激を与えるような描写になっているところもありますが、このあたりは時代の制約というところでしょうか)。訳文、注釈、そして解説もすべて是非ともしっかり読んでほしい一冊です。

 

 

 

5月の読書

5月になりました。こんな感じで本を読んでいます。4月に読んだけれど感想を書いていない本について感想をまとめるかもしれませんが、先ずはこういう所から。

 

姜尚中(総監修)「アジア人物史11」集英社:読了

姜尚中(総監修)「アジア人物史10」集英社:読了

松下憲一「中華を生んだ遊牧民 鮮卑拓跋の歴史」講談社:読了

稲葉穣「イスラームの東・中華の西」臨川書店:読了

ディオドロス(森谷公俊訳註)「アレクサンドロス大王の歴史」河出書房新社:読了

杉本陽奈子「古代ギリシアと商業ネットワーク」京都大学学術出版会

古代ギリシアのポリス世界というと、武装自弁で軍役を果たす市民が政治に参加する世界として知られています。そんな市民の多くは土地を持ち、農業を行う、あるいは商工業を営むと言った形で生計を立てている者が多く見られます。しかし、商業活動に関わる、特に海上交易に関わる商人となると、ポリスの市民ではない「アウトサイダー」であると言われることが多いです。

本書では、そんな海上交易に従事する商人など商業従事者について、まず第1部では銀行家と海上交易商人にしぼり、かれらの法的地位、銀行家のネットワークや商業従事者についてのイメージを探り、第2部では海上交易商人の活動を支えた諸制度をあつかい、顕彰、商業裁判の運用、奴隷による情報提供、穀物輸送関連法の運用、そしてこの時代に度々みられた商戦拿捕への対応を検討し、総括していきます。

海上交易商人と銀行家を比べると、法的地位では特権として市民権付与も見られる銀行家と比べると海上交易商人は与えられる特権にも制限があることが示されます。また銀行家が顧客と銀行家の相互扶助関係が銀行活動をささえ、有力者との協力関係を通じ市民間の人間的つながりにも入り込むのと比べ海上交易商人はそうしたつながりは薄い、しかし銀行家を頼ることで活動がやりやすくなる事はああったと言うことも示されます。商工業者が蔑視されていたと一般的に言われるアテナイにおいて、銀行家は社会的に信用でいるというイメージが形成されていること、海上交易商人についても穀物輸送の担い手としてある程度信用され肯定的イメージが形成されている事が示されていきます。商工業者が「アウトサイダー」として社会から切り離されていると言うわけではないことが示されています。

海上交易商人は銀行家ほど市民社会に食い込んでいないため、彼らが円滑な活動をするためには銀行家とは別の仕組みが必要となります。それを示していくのが第2部ということになりますが、顕彰決議、商業裁判など司法制度、そして航海の安全保障に関わる国際関係(商船拿捕が度々起きている時代です)、こうしたものを扱いつつ、実態としては制度面では欠落があり不十分なところがあるが、それを補うものとして商人のつながりがあると言うことが示されていきます。

本書を読んでいると、商業活動においては制度を色々と設定しても、それを円滑に運用し機能させるうえで商人たちのネットワークが重要であることが示されます。古代ギリシアにおいて人と人のつながりが仕事を円滑に進める上で非常に重要であることが伝わってきます。アテネ海上交易商人が契約文書を保管してもらうため信用できる第三者を求めた場合に、信頼できるイメージが強くかつ市民社会に深く食い込んでいた銀行家が度々頼りにされています。また海上交易商人たちの行いについて、それを顕彰しようにも裁判に訴えて罪に問うにしても、それを証明できるのは同行した商人たちであり彼らの証言が重要であったことがうかがえます。また商人同士での情報共有が商船拿捕を逃れるうえで重要であることがうかがえます。

また、このようなネットワークを利用して利益を上げるためには、その場だけを考えた刹那的な対応を取ることは中長期的にみて不利益を生じるものであることもうかがえます。偽証をすれば後でその報いが自らに跳ね返り、不利益を生じるとなれば、裁判での偽証は控えるようになりますし、多くの商人の目が光り、商人同士でつながっている世界で不正を働くことは、今後の活動にも支障を来すと思えば、そういった行為は控えると言う具合のようです。そして、商業従事者は決して「アウトサイダー」などではなく、彼らの活動はアテネの制度と彼らのネットワークの相互作用によりうまくいっていたというのが紀元前4世紀のアテネの商業従事者たちの実情でしょうか。

人に依存しすぎた、極めて属人的な資質に基づく仕事の仕方自体は色々と問題が出てくることはありますし、職場において契約や制度と言ったものを整備することで経済活動を営みやすくなることはたしかです。しかし、ちょっとした心遣い、配慮などにより事態が思った以上にうまく動くと言うこともありますし、信頼関係のない相手との仕事は思った以上に進まない、うまくいかないと言うことも見受けられます。人と人の関係がうまくいっていると言うことが人間の様々な活動をうまく進めていくうえで重要なようにも思えます(そんなものはいらないと思う人もいるようですが)。とはいえ、あまりそれが強くなりすぎると風通しが悪くなる、息苦しい職場になりかえって働きにくくなると行った問題も生じてくるでしょう。本書を読んでいてそんなことを考えつつ、少しゲーム理論とかでも勉強し直してみようかと言う気持ちになる、そんな読書体験となりました。

古代の経済活動との関わりという形で、人と人のネットワークがどのように形成され機能しているのか、それが古代においてどのように表れているのか、その一端が明らかになっている本だと思います。これから、商業活動だけでなく、この時代に多く使われていたギリシア人の傭兵の活動など様々な分野に広がっていくことを期待したいと思います。

新見まどか「唐帝国の滅亡と東部ユーラシア」思文閣出版

唐の歴史は安史の乱の前と後で大きく代わると言うことは言われています。前半の頭部ユーラシアの「世界帝国」という感じだった時と比べ、後半になると唐は藩鎮の割拠や対外的劣勢などのなか、中国型王朝へと転換していくと言うことが言われています。人によっては長い余生のような扱いをする人もいるようです。

しかし、藩鎮割拠状態とされる後半の唐は150年ほど続いており、「世界帝国」だった時代以上の長さですし、そもそもなぜそんなに持ちこたえられたのかと言うことに正面から答えた本がそれほどあるのかというと微妙なところです。

本書は東部ユーラシア情勢のなかで藩鎮割拠状態の唐がどのような歩みを見せたのか、さらにその後の時代、どのような事態が発生したのかを論じていきます。

唐の後半というと藩鎮が割拠し、唐は衰退していったというかたちで世界史教科書などでは語られがちです。確かに河朔三鎮のように唐のコントロールから離れ自立傾向を強めた藩鎮もありますが、全ての藩鎮が勝手に振る舞うようになっていたならば唐は150年も続かなかったでしょう。どのようにして唐は支配を維持したのか、そして唐の滅亡と五代の時代にどのようにつながっていくのかを、河朔三鎮など河北から河南におよぶ地域に存在した安史軍系藩鎮に焦点をあて描き出していきます。

まず、藩鎮体制形成期に藩鎮が地位と権力を保つためにとった手段が検討されています。安史系藩鎮の中で婚姻関係を結び、安禄山・史思明を崇拝対象とする彼らのなかで安禄山の「仮子」であった李宝臣が藩鎮のなかで特に有力視され結集の軸となっていたこともあれば、ウイグルとの婚姻を背景に反旗を翻す者もいます。また唐の朝廷も公主降嫁を行い関係強化を図るといった対応をとったことも知られています。さらに河南の藩鎮には海商と結びつき新羅渤海との交易で利益を得たり、内陸交易とのつながり、さらに山岳狩猟民も軍事力として組み込んでいた事例が見られます。さらに海商や山岳狩猟民との繋がりを作るにあたり寺院が大きな役割を果たしたことも指摘されます。藩鎮体制成立に際し、唐後半に現れた新興勢力(ウイグル新羅商人)との連動が見られるというのが重要な指摘だと思います。

藩鎮体制の変容期についても検討されています。一つの転換期として840年代、ウイグル崩壊が見られた時代をあげています。そもそも節度使設置は辺境防衛、北方の脅威への対応といったことから置かれてはじめたとはよく言われていますが、藩鎮側でも北方の脅威の存在を理由に世襲を求めることがあったようです。しかし朝廷側ではウイグルの崩壊が見られた時期、ウイグルに備える文を国内の内乱鎮圧に振り向ける余裕が生じ、実際そのような対応を取ろうとします。このあたり北方情勢の認識のずれが藩鎮と朝廷の交戦に至る原因だったというようです。河朔三鎮に対しても既得権を認め脅威を弱めることに成功した時期があり、それによって反乱を収めることもできました。対外的脅威の減少、内部の安定をみた唐の朝廷は軍団を縮小したが、受け皿もないものたちが河南の不安要因となっていくという別の問題を生じさせたようです。

そんななか、唐を実質的に滅亡に追いやることとなる黄巣の乱がおこります。塩の密売人で科挙に落ちたという経歴の黄巣が起こした反乱ですが、不穏分子が多く溜まっていた河南に蓄積し、それを糾合したのが黄巣の乱です。唐は切り札となる軍事力として北辺遊牧民(沙陀など)を有していました乱の初めの頃、北方遊牧民の世界でも李克用の反乱がおきていたという、唐の社会・経済・軍事の問題の組みあわさりが滅亡をもたらしたということが指摘されています。唐の滅亡を中国内部の問題だけでなく、東部ユーラシア世界との関連も踏まえながら展開される結論はなるほどなと思います。

この乱の時代に特に影響を受けず残存していた河朔三鎮についても、唐滅亡後もある時期まで存続し、自らの生き残りのため様々な相手と提携しようとしていたことや、河朔三鎮のあった河北が唐の制度や文物を維持し伝えただけでなく、唐をつぐ正当性をものちの王朝に伝えていたのではないかという指摘がみられます。この時期の中国における仏教の重要性も示されているのが興味深いところです。また、会盟を結び境界、両者の関係を安定させるという次の時代の国際関係のようなものも現れます。次の時代につながらないように見えるところでも、その後の時代に顕著になる要素の萌芽が見られるという感じで面白いです。

唐の藩鎮体制の歴史を東武ユーラシア世界の歴史の流れの中に位置づけていきます。藩鎮をささえる武力や経済基盤を見ると、北方民族もいれば新羅の海商もあらわれるなど、実に多様な人材により支えられていますし、唐との関係でも互いに依存するような面も見られることがわかります。そもそも、唐の藩鎮について置かれた場所によって果たすべき役割にも違いがある(河朔三鎮のような所以外をみると、対河朔三鎮、対辺境防衛のためのものもあれば、財政面で唐を支える藩鎮もあるなど,大まかに違いがあるようです)ということが序章ででてきますが、そのことも非常に刺激的でした。各地に割拠する藩鎮と唐の関係を詳しくみていくことが大事なのでしょう。最近、森部豊「唐」をよんだところだったので、これはこの時代の状況についてより解像度を上げられる一冊だと思いました。値段は張りますし、決して易しくはないですが、「中国本土」の中に限定されない、より広い視野から唐の歴史を見ていく本書はぜひ読んでみて欲しいと思います。