まずはこの辺は読んでみよう

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杉本陽奈子「古代ギリシアと商業ネットワーク」京都大学学術出版会

古代ギリシアのポリス世界というと、武装自弁で軍役を果たす市民が政治に参加する世界として知られています。そんな市民の多くは土地を持ち、農業を行う、あるいは商工業を営むと言った形で生計を立てている者が多く見られます。しかし、商業活動に関わる、特に海上交易に関わる商人となると、ポリスの市民ではない「アウトサイダー」であると言われることが多いです。

本書では、そんな海上交易に従事する商人など商業従事者について、まず第1部では銀行家と海上交易商人にしぼり、かれらの法的地位、銀行家のネットワークや商業従事者についてのイメージを探り、第2部では海上交易商人の活動を支えた諸制度をあつかい、顕彰、商業裁判の運用、奴隷による情報提供、穀物輸送関連法の運用、そしてこの時代に度々みられた商戦拿捕への対応を検討し、総括していきます。

海上交易商人と銀行家を比べると、法的地位では特権として市民権付与も見られる銀行家と比べると海上交易商人は与えられる特権にも制限があることが示されます。また銀行家が顧客と銀行家の相互扶助関係が銀行活動をささえ、有力者との協力関係を通じ市民間の人間的つながりにも入り込むのと比べ海上交易商人はそうしたつながりは薄い、しかし銀行家を頼ることで活動がやりやすくなる事はああったと言うことも示されます。商工業者が蔑視されていたと一般的に言われるアテナイにおいて、銀行家は社会的に信用でいるというイメージが形成されていること、海上交易商人についても穀物輸送の担い手としてある程度信用され肯定的イメージが形成されている事が示されていきます。商工業者が「アウトサイダー」として社会から切り離されていると言うわけではないことが示されています。

海上交易商人は銀行家ほど市民社会に食い込んでいないため、彼らが円滑な活動をするためには銀行家とは別の仕組みが必要となります。それを示していくのが第2部ということになりますが、顕彰決議、商業裁判など司法制度、そして航海の安全保障に関わる国際関係(商船拿捕が度々起きている時代です)、こうしたものを扱いつつ、実態としては制度面では欠落があり不十分なところがあるが、それを補うものとして商人のつながりがあると言うことが示されていきます。

本書を読んでいると、商業活動においては制度を色々と設定しても、それを円滑に運用し機能させるうえで商人たちのネットワークが重要であることが示されます。古代ギリシアにおいて人と人のつながりが仕事を円滑に進める上で非常に重要であることが伝わってきます。アテネ海上交易商人が契約文書を保管してもらうため信用できる第三者を求めた場合に、信頼できるイメージが強くかつ市民社会に深く食い込んでいた銀行家が度々頼りにされています。また海上交易商人たちの行いについて、それを顕彰しようにも裁判に訴えて罪に問うにしても、それを証明できるのは同行した商人たちであり彼らの証言が重要であったことがうかがえます。また商人同士での情報共有が商船拿捕を逃れるうえで重要であることがうかがえます。

また、このようなネットワークを利用して利益を上げるためには、その場だけを考えた刹那的な対応を取ることは中長期的にみて不利益を生じるものであることもうかがえます。偽証をすれば後でその報いが自らに跳ね返り、不利益を生じるとなれば、裁判での偽証は控えるようになりますし、多くの商人の目が光り、商人同士でつながっている世界で不正を働くことは、今後の活動にも支障を来すと思えば、そういった行為は控えると言う具合のようです。そして、商業従事者は決して「アウトサイダー」などではなく、彼らの活動はアテネの制度と彼らのネットワークの相互作用によりうまくいっていたというのが紀元前4世紀のアテネの商業従事者たちの実情でしょうか。

人に依存しすぎた、極めて属人的な資質に基づく仕事の仕方自体は色々と問題が出てくることはありますし、職場において契約や制度と言ったものを整備することで経済活動を営みやすくなることはたしかです。しかし、ちょっとした心遣い、配慮などにより事態が思った以上にうまく動くと言うこともありますし、信頼関係のない相手との仕事は思った以上に進まない、うまくいかないと言うことも見受けられます。人と人の関係がうまくいっていると言うことが人間の様々な活動をうまく進めていくうえで重要なようにも思えます(そんなものはいらないと思う人もいるようですが)。とはいえ、あまりそれが強くなりすぎると風通しが悪くなる、息苦しい職場になりかえって働きにくくなると行った問題も生じてくるでしょう。本書を読んでいてそんなことを考えつつ、少しゲーム理論とかでも勉強し直してみようかと言う気持ちになる、そんな読書体験となりました。

古代の経済活動との関わりという形で、人と人のネットワークがどのように形成され機能しているのか、それが古代においてどのように表れているのか、その一端が明らかになっている本だと思います。これから、商業活動だけでなく、この時代に多く使われていたギリシア人の傭兵の活動など様々な分野に広がっていくことを期待したいと思います。