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M.I.フィンリー(柴田平三郎訳)「民主主義 古代と現代」講談社(学術文庫)

アテナイの民主政というと、抽選制度により全ての市民が公職に就く可能性がある、市民が参加する民会で国政の重要方針がそこで決められる、裁判についても 抽選で選ばれた陪審員が評決を下す法廷が開かれている、といったことをどこかで耳にした人たちも多いでしょう。一方、デマゴーグ(煽動政治家)による国政 混乱、衆愚政、専門家不在、参政権を極端に制限した閉鎖的な体制、そして、プラトンなどのかなり否定的な見解といったことも知られています。

今の民主主義国では、国民は自分たちの代表となる政治家を選挙で選ぶことはありますが、自らが直接政治に携わることはありません。裁判に関しては日本では 最近になって裁判員制度により1審の段階については裁判員が判決を下すことはありますが、国事に国民が直接関わる機会は極めて少なくなっている国が多数で す。そして、職業政治家および官僚が政治を取り仕切り、国民が関わる機会はかなり限定されているのが現代の多くの国における民主主義のありかたというとこ ろでしょう。

それに対し、本書で著者が分析対象とする古代の「民主主義」はそういった職業政治家に任せる体制ではなく、市民が直接政治に参加する「直接民主政」のこと です。そうなると、無知な大衆に政治ができるのかという疑問が直ちに浮かぶと思いますが、アテネ市民たちは国政への参加は大きな責任を伴う、ある意味命が けの状況に置かれ、それでも政治に参加していたこと、市民たちは民会だけでなく日常生活のさまざまな場面で意見を交わしていたこと、官僚のような形ではな くとも専門的知識を持つ人が政治に関わる機会があったことなどが指摘されていきます。

また、アテナイの政界でもペリクレスのような指導者はいましたが、彼らに決定権があったわけではなく、指導者が直接決定する権限がなくともリーダーシップ を発揮することが可能であることや、デマゴーグ(デマゴーゴス)はアテネ民主政において不可欠な存在であったこと、紀元前5世紀の徹底した民主政はアテナ イ帝国の存在に支えられたものであったことなどの指摘もなされています。このあたりは古代ギリシア史の専門家ならではといったところでしょうか。さらに、 プラトンなどの著作はかなり特殊なものであることが指摘されており、これを基準として民主政について考えるのは危険であることにも改めて気づかされます。

一方、本書の原書は1973年に書かれたものであり、それから40年以上たった今から見ると、もう少し検討すべきこともあるのではないかと思います。特に アテナイペロポネソス戦争で敗れ、「帝国」でなくなった前4世紀にしくみとしての民主政の整備が4世紀に進んだいっぽうで、専門分化のような状況が徐々 に進んでいることなどが昨今指摘されています。そのあたりは別の本を読みながら我々自身が考えていくべきことなのでしょう。

アテナイの民主政の仕組みや機能、そこで見られた問題点やアテナイで講じられた対策などを分析しながら、現代の民主主義のあり方を考えていこうとするのが 本書です。昨今、民主主義とは何かということが色々と話題に上り、いろいろな見解が示されています。古代アテナイの人々の政治的実践のありかたを色々と考 えるところから、民主主義の思想が発展していっているわけで、源流にあたる部分を検討し、そこから民主主義について考え、これからの国民と政治の関係につ いて思いを巡らせるうえで、非常に有益な著作であると考えます。昨年末にでた「ギリシア人の物語」で古代ギリシアに興味を持った人には、あの本でとまるこ となく、こういった本にも手を伸ばし、考えて欲しいと思います。