まずはこの辺は読んでみよう

しがない読書感想ブログです。teacupが終了したため移転することと相成りました。

井上文則「シルクロードとローマ帝国の興亡」文藝春秋(文春新書)

ユーラシア大陸の東西にローマ帝国漢帝国が形成された時代、ユーラシアの東西を結ぶシルクロード交易が展開されました(なお、本書ではシルクロードをアジアとヨーロッパ、あるいはアフリカを結んだユーラシア大陸の交易路の総称として用いています)。そこで展開された交易がローマ帝国の繁栄と衰退に影響を与えていたのではないかという視点からローマの興亡をまとめた一冊がでました。

まず、ローマのシルクロード交易が海路を中心とし、紅海、そしてインド洋をへてインドへ至る交易ルートがおもに用いられていたこと、シルクロード交易で扱われた輸出品・輸入品についてまとめられています。葡萄酒やガラス、そして珊瑚や金銀といったものがローマから輸出され、絹や胡椒、乳香・没薬が輸入されていたことがまとめられています。主なルートは紅海ルートですが、ペルシア湾を経由するルートもあり、ローマは主に紅海ルートを使っていたこと、このルートの安全確保にも力を入れていたことが示されています。

では、この交易がローマにどれだけの富をもたらしていたのか。これについて交易に伴う関税が輸出と輸入それぞれに対してかけられ、相当な額の収入をもたらしていたであろうことが、1980年に公刊されたムージリス・パピルスをもとに示されていきます。輸入と輸出でそれぞれ25パーセントもの関税がかけられ、それが帝国の収入となり、交易の活性化は国家収入の増加に直結するものであったことが示されます。なお、帝国の収入のどれくらいを関税が占めていたのかについて、推計ではありますが本書では5割近いという見解を提示しています。

交易と帝国の繁栄について、思考実験的な話題(小プリニウスと交易の関係)もまじえながらシルクロード交易の富が富裕層による恵与志向(エヴェルジェティズム)を通して直接的・間接的に都市の活性化、帝国の繁栄に寄与したということにふれたうえで、繁栄から衰退への転換を語る方向へと進んでいきます。ユーラシア大陸各地の情勢が不安定化するなかでシルクロード交易が衰退、3世紀半ばにはどん底の状態になっていくと見ています。ローマの場合は疫病の流行と戦争(ゲルマン人ササン朝)、そして軍人皇帝時代の危機的状況の影響が大きいと見ています。それに加えて、ササン朝海上進出やエチオピア高原に興ったアクスム王国の紅海進出もあったということが示されています。ササン朝海上交易進出について、ある程度纏まった記述が見られるのがありがたいです

交易の衰退にともない関税収入も減少、一方で軍事費の増大、さらにディオクレティアヌス帝以降の官僚の増大により財政が悪化、これに対応しようとした諸政策(新税導入など)による帝国民への負担増大、そして帝国の衰退と西ローマ帝国の滅亡という流れがまとめられていきます。交易による富がエヴェルジェティズムのもとで都市や国家に還元され、莫大な軍事費や異民族への年金をまかなう、こうしたことで支えられてきたローマ帝国の繁栄が維持困難になったということがあるようです。

商業活動に対する考え方が古代と現代では異なり、古代においては商業で財を成した人物がそのまま商業活動を続けるのでなく、獲得した富を土地獲得のためにもちい大土地所有者としてステータスを得るといったことに価値が置かれていたようです。社会の上層部たる元老院身分の人々は商業に自ら携わることはみとめられず、かれらは代理人を介し交易に関わっていました。商業はあくまで社会的上昇の途中でもちいられる活動のひとつではありましたが、それ自体が独立した活動として高く評価されていたというわけではないようです。こんな背景もあってか、シルクロード交易は失敗するリスクはそれなりに高い事業でしたが、利益がリスクに見合わないと判断された時にあっさりとローマ商人が手を引いていった(その空白を埋めたのがササン朝アクスム王国海上進出でした)のではないかという指摘はそういうところもあるなとおもわされるところがありました。

著者はローマ史研究者ですがなぜか中国史研究者宮崎市定の評伝を書いていたり、別の著作で随所に中国史に関する話を盛り込んでいたりと、ローマ以外の歴史にも関心を持っている様子は別の著作からも伺えました。今回の著作は宮崎市定漢帝国滅亡と黄金の流出を関連づけるというところからも着想を得たようで、序章で「黄金を軸としたユーラシア史」の可能性として、漢とローマが交易を通じて黄金を流出させ、それにより衰退したという仮説を提示しています。結論としては漢とローマはまったく違っており、序章で提示した「黄金を軸としたユーラシア史」という歴史像自体は成り立たないということを自らの手で示していきますが、作業仮説としては大いに役立ったのではないかと思います。

一般的には過去のテレビ番組などの影響もありオアシスの道の方のイメージが強い「シルクロード」という言葉を使っているため、海上交易の方のイメージが湧きにくいというところはあるだろうと思います(オアシスの道、海の道、草原の道というユーラシア東西を結ぶ交易路を表す広義の「シルクロード」という見方はあります)。しかし、ユーラシア大陸を舞台とする人やものの流れと帝国の興亡を関連づけて語り、ローマ帝国衰亡について新たな視点から捉え直そうという試みは非常に興味深いです。ローマの交易について、ひいては経済の観点からみたローマ帝国の歴史について、近年の研究成果を反映した一般書というのは貴重なので、この辺りのことに興味関心がある人は読んでみると面白いでしょう。