まずはこの辺は読んでみよう

しがない読書感想ブログです。teacupが終了したため移転することと相成りました。

マギー・オファーレル(小竹由美子訳)「ルクレツィアの肖像」新潮社

物語の出だしは1561年、主人公であるルクレツィアが死んだ年、人里離れたところにある砦を舞台に夫と二人きりの食卓で彼女は夫に殺されることを予感しながら卓についているところから始まります。その後、過去の話と砦での様子が交互に入れ替わるように展開していきますが、一体何故夫に殺されると思うようになっていくのか。そこに至るまでに何があったのか。

シェイクスピアの妻を題材とした「ハムネット」をだした著者による、近世の女性を主人公とした小説がまたでました.今度の主人公はコジモ大公の娘ルクレツィア、その肖像がのこされているものの歴史上ではフェラーラに嫁いで早世したと言うことだけが残っている人物です。

一家の中でかなり変わった子どもとして育ち、やがて絵の才能を開花させていく子ども時代、早世した姉のかわりにフェラーラ公アルフォンソに嫁ぐことになる経緯、華やかな外見の下に様々な思惑やしがらみのもとでもできうる限りのことを試みながら生きていく様子など、わずか16年という短いルクレツィアの生涯をほんのわずかな史実を豊かに膨らませながら描き出していきます。

この物語でのルクレツィアは、母親や兄妹とはうまくいっている感じは無いのですが、色々な物を見通す鋭い感覚や観察眼、豊かな感性を持ち、召使いにも分け隔て無く接する、そして虎のような強さを芯の部分に持ちつつ、しがらみの多い世界でそれを巧みに隠しながら生きているという人物だと思いながら読みました。下絵を描いてその上にまた別の絵をかさねていくかのような感じでしょうか(そういう感じの絵の話が作中にも出てきます)。

そして、彼女が育ったメディチ家の宮廷は、この時代故の制約(妻は世継ぎを産むことが求められる等々)はもちろんあるのでしょうがかなり「開けた」感じのところです。宮廷において妻に求められるのは世継ぎを産むことであり、ルクレツィアもフェラーラではそのことを周りから求められることになりますが、フィレンツェフェラーラの宮廷は全く別物のように描かれています。当時の支配者コジモは娘達に対しても高度な教育を施し、妻とも重要な案件を話し合ったりするなど、女だからと言うことによる制約が比較的少ない世界としてかかれています。

ルクレツィアが自分を殺そうとしているとみているフェラーラ公アルフォンソについては置かれた状況や立場にかなり縛られ,苦悩しているようにも感じました。個人としてのアルフォンソはルクレツィアと出会い、結婚に向かう頃は優しくなかなかに魅力的そうな人物として書かれていますし、ルクレツィアへの贈り物が型どおりではない胸白貂の絵であることなど、人間としてはなかなか魅力的なところがあるようにも描かれています。

個人としては如何に魅力的であったとしても、君主として君臨する、家中を取り仕切りまとめる、そして家を存続させる、こうしたことからは逃れられる訳もなく、「個人」としてのアルフォンソをおさえ「支配者」としての振る舞いが求められています。自分の地位や公国を守らねばならず、自分が支配者であることを絶えず誇示し、召使いや身内に対しても容赦ない対応を取るところが結婚後に目につくようになります。

そんな彼はルクレツィアにも自分に従い「世継ぎ」を生むことを求め、世継ぎのためとなればルクレツィアを縛り付けるようなこともいとわない姿勢が目につきます。刺激が良くない旨のアドバイスを聞けば絵に触れる機会を奪ったり、髪を切ったりしたかと思えば、全く別方向の対応が良いと聞くと転地療法をしようとしたりと、何でもありな人物です。

しかし彼はルクレツィアの中に自分に従わぬ何かがいることを感じとります。終盤の彼にとって物言わぬ肖像画のほうが彼女本人よりも望ましいもののようにも見えますが、自分のコントロールできる形で手許に置いておけるものだと思ったからでしょう。

興味深い登場人物としてアルフォンソにつかえる従兄弟のバルダッサーレと言う人物がいます。アルフォンソの側近として彼がやれと命じられたことは殺人も含め何でも行う、支配のための道具のような人物ですが、ルクレツィアに対してはじめから好意的とは言いがたい様子がみられる(もちろん宮廷では礼儀正しく振る舞っているようですが)人物ですし、ルクレツィアも彼が最初から敵意を抱いていることを感じ取り、1561年の描写では彼は間違いなく自分を殺しに来ると思っている様子が見られます。

バルダッサーレがルクレツィアに対しはじめから何故そんな友好的でないのか、その理由について明確に語っている感じではないのですが、彼にとって自分とアルフォンソの間に割り込む夾雑物、邪魔な存在、それがルクレツィアだったのでしょうか。今まで自分が占めていた場所を奪いかねないものとして彼女を警戒したのかなと思いながら読みました。アルフォンソと彼の関係性がどのようなものなのか、そこまで深く何か書いているという感じではありませんが、色々と考えを巡らせる余地がそこにはありそうです。

終盤、ルクレツィアが下した決断と取った行動と結末についてはこれで良かったという思いがする一方で、ついてきた召使いがどうなったのか気になるところではあります。彼女が様々なしがらみからのがれて獲得した自由も、結局誰かを犠牲にすることに依って得られたのだとするならば、それはそれで不幸なようにも思えます。彼女が意図してそうしたわけではないのですが、なんとなく苦さの残る爽快な結末というところでしょうか。ほんのわずかな歴史的な事柄からこの物語を膨らませて描き出す著者、先にとりあげたシェイクスピアの妻を主人公にした作品も読んでいたいですし、それ以外にも別の作品があるようなので、それも読んでみたいと思います。