まずはこの辺は読んでみよう

しがない読書感想ブログです。teacupが終了したため移転することと相成りました。

加藤玄「ジャンヌ・ダルクと百年戦争」山川出版社(世界史リブレット人)

現代日本のゲームやアニメ、漫画、小説など、ポップカルチャーの世界において人気のある歴史上の人物というと、ジャンヌ・ダルクはそのなかでも相当上位にランクする人物だと思われます。神の声を聞いたとして故郷を出発し、オルレアン包囲線を戦い抜き、シャルル7世を助け、窮地のフランスを救いながら、最後は捕らえられ異端裁判にかけられ処刑されるという非常に短い期間に閃光を放つその生涯は多くの人に強い印象を与えています。

では、ジャンヌについて、「真の」ジャンヌ像を描くことが出来るのかと言うと、それは極めて困難な者であると言うことが本書ではまず語られています。生前からジャンヌをどう捕らえるのかは人によって様々であったことや、異端裁判や復権へのプロセスで見られる様々な史料もそれぞれの立場から書かれており、どの史料を使うかによってジャンヌ像は大きく変わることになるなど、

ジャンヌ・ダルクが登場する以前の英仏関係および百年戦争の展開を最初にまとめ、ジャンヌの生涯をあつかいますが、重きを置いているのはジャンヌが同時代にどのように人々から見られていたのか、そして処刑された後、彼女がどのように受容されていったのかと言うことです。

分量としてはわずかな彼女の生涯について扱った部分を読んで印象に残るのは、この時代に預言者として扱われる人々が何人も登場しているということ、そしてジャンヌもそういった預言者の一人としてあつかわれたこと、ただし彼女は一般的な預言者は違い、自ら予告した事柄に積極的に参加しようとするところや、騎士のスタイルをとり公的な発言権と行動の自由を確保して自らの使命を完遂刷るまで男装を通したといったところでしょうか。当時の社会通念や規範を超えたところで活動する彼女は非常に興味深い存在だと思います。

短くも非常に鮮烈な印象を残す彼女の生涯については史料的制約もあり分量は少なく、彼女その者について知りたいという人にはあまりむかない一冊となっています。一方で彼女が生前から様々な語られ方をしてきたことや、その後の世界でどのように受容されてきたのかなど、「受容史」を扱った本として読むと面白く読めると思います。

森山光太郎「隷王戦記3 エルジャムカの神判」早川書房(ハヤカワ文庫)

021年春に刊行が開始された「隷王戦記」、第3巻がようやく出ました。第3巻ですが、第2巻終了時点から時は少し経過したところから物語はスタートします。「戦の民」をまとめあげ、ついに「隷王」の地位に叙されたカイエン、それに従うカイエンの部下達やともに戦うことを選んだ戦の民の諸侯たちが戦う相手は、北から迫るエルジャムカ・オルダ率いる「牙の民」の大軍勢と、南から迫るオクシデントの聖地回復軍です。なお聖地回復軍を率いるのはかつてのカイエンの友であるアルディエル、そして想い人であるフラン・シャールも同行しています。以下、内容に極力触れないようにはしますが少し触れながら感想等々をまとめようかと想います。

南から迫るオクシデントの軍勢と北から迫る「牙の民」というオリエント、オクシデントの両面からせまる敵を迎え撃たねばならない非常に困難な状況です。この難局を乗り切るべくカイエンとその仲間達は持てる力を振り絞り、打てる限りの対策を講じるのですが、現存する人ならざる「守護者」のほぼ全てを擁するエルジャムカの軍勢と聖地回復軍はただでさえ非常に強力なうえ、人間であるアルディエルもまた非凡な軍才をもって「戦の民」の軍勢を翻弄します。

圧倒的にカイエン達の不利な状況ですが、唯一「背教者」の3つの能力を一人の人間が全て継承すれば「守護者」の王であるエルジャムカを討つ事が可能であるということが分かっています。第2巻の終盤で「背教者」の能力を持つ者二人をカイエンは生かしており、その状況は第3巻でも続いています。「(普通の人、守護者、背教者をとわず)人を救う」という意思を示したカイエン自身があえてそれを選択したのですが、はたして長年続く「守護者」と「背教者」の抗争関係はどのような結末を見せるのか、カイエンはエルジャムカを討つ事は出来るのか。

2巻は戦いの連続という展開でしたが、第3巻も南で聖地回復軍を迎え撃つカイクバード侯とその軍勢、北で「牙の民」の軍勢と対峙するカイエンたち「戦の民」の軍勢、それぞれにおいて激しい戦いが続きます。この巻もまた「戦記」という言葉がちゃんとあてはまる内容になっています。人間同士の武勇と知略を尽くした戦いに、「守護者」と「背教者」という人ならざる者たちの能力の発現が組み合わせられ、互いに能力を持つ者が相手にいる中で、それをいかに封じるか、回避するかが描かれています。如何に自分たちに有利な状況を作り出そうかと策を練り、相手を出し抜き、あるいは策にはまったと見せかけて逆に自分の術中にはめるという展開をうまくまとめているように思えました。読んだ限りの印章ですが、個人の武力、そして知略ということでは人間の中ではアルディエルが最強なのではないでしょうか。

「英雄のいない時代は不幸だが、英雄を必要とする時代はもっと不幸だ」というブレヒトの劇中の台詞がありますが、本書における英雄達を見ているとまさにこれを思いおこします。カイエンにせよエルジャムカにせよ、英雄としてあがめられる者は何万、何十万、それどころか数百・数千万にも及ぶ人々がその個人に命を預けても良い、捨てても良いと思わせることができる存在のようです。彼らの判断一つで多くの命が散っていくことになりますし、実際彼らはかなり非情な選択をしているところも見られます(エルジャムカの能力に対抗するため多くの犠牲を出すことも辞さないなど)。華々しい活躍を見せる英雄達の武勲が何によって成り立つのか、人の上に立つ者が背負わねばならないものは何なのか、そのような存在を許容することが果たして出来るのか、「英雄」のあり方やそれへの向き合い方は人それぞれ想うところはあるでしょう。「英雄」なき世をどのように作っていくのか、本書の後日譚としてその辺りを読んでみたいと想うのは少々贅沢なわがままでしょうか。

1巻と2巻を読んだとき、果たしてこれは3巻で完結させられるのだろうかという感想を抱きました。活躍を期待したくなる多くの登場人物、様々な政治勢力や集団が登場していましたが、それぞれを掘り下げていくとどうやっても巻数は膨大なものとなるのは確実と思えました。連続ものの物語は書き始めてからどんどんと話が広がっていき、気がつくと終着点が見えなくなっていくということがあります(「ゲーム・オブ・スローンズ」の原作とか)。最悪の場合、作者が亡くなってしまうグイン・サーガのようなものもあります。そうならずにきちんと話を締めくくることが出来たのは何よりも良かったと想います。一方で、まだまだ掘り下げて欲しい人物や出来事、そしてこの3巻分の物語の前史(エルジャムカの勃興とか)、人ならざる者が消えた世界における人間達の奮闘など、書いて欲しいと思ってしまった事柄は色々あります。願わくば、「スターウォーズ」シリーズのようにこの3巻を核として色々な世界が展開していって欲しいと思いますが、果たしてどうなりますか。

藪耕太郎「柔術狂時代」朝日新聞出版(朝日選書)

柔術」というと、柔道の原型であるとか、20世紀末より注目を集めたブラジリアン柔術といったイメージが強いかと思われます。嘉納治五郎講道館柔道を作り上げ、それを日本から世界へ普及させようとしていた20世紀初頭、アメリカにおいて柔術が一大ブームとなった瞬間がありました。

アメリカで突如として柔術ブームが起きたのは何故か、そしてそれが短期間で衰退してったのは何故か、それを考えるにあたり本書はジャポニズム日露戦争、大衆消費社会、この3つが重要な要素であるとみています。柔術がブームとなった時代のアメリカ社会の様相を描き出しつつ、柔術ブームに関わった人々や出来事をとりあげていきます。

取り上げられる事柄をみると、日本において柔術を学び、それを伝えたアメリカ人や第一次大戦中の駐屯地での柔術、格闘技や護身術としてもさることながら、大衆消費社会のアメリカにおいては現代のフィットネス感覚で「身体文化」の一つとして受容された様子、流行に乗っかろうとする柔術の周囲にあらわれるメディア関係者などの話がなかなか興味深いです。

そして、講道館柔道が海外への普及に取り組み始めたその時期に、それと別系統で柔術アメリカにはいっており、柔術が巻き起こすブームとそれに対する反発や批判といった熱狂の渦に柔道も否が応でも巻き込まれている様子が窺えます。柔術と柔道については、柔道の方はどちらかというとハイソサエティむけ、閉鎖的なところに働きかけるところがあるというのは、講道館の柔道の普及プロセスを考えるとさもありなんという所でしょうか。

一方、柔術ブームにはアメリカの対日感情も影響をしていたことが窺えます。対日感情の変化に振り回された東熊勝の栄光と挫折の物語もとりあげられています。彼が柔術の大家のように祭り上げられ、柔術の伝道師として活躍するも(実際、怪しげな柔術の本を出しています)、日露戦争後の対日感情の悪化のなか詐欺師のように扱われた末、レスリングとの異種格闘戦で敗北します。

東の試合に限らず柔術レスリングの異種格闘戦で柔術が負ける場面はけっこうありますが、対日感情の悪化とともに柔術レスリングより劣る、アメリカが日本より優れている、そのような感じで受け止められていく所が描かれています。

格闘技というとやはり異種格闘技戦というのは避けて通れない話題となるようです。ボクシングやレスリングとの他流試合を行う柔術家、柔道家の話がところどころに表れますが、最終章ではブラジリアン柔術の祖となる前田光世の活動が取り上げられています。前田が海外に渡航し、レスリングの技術なども取り込みながら嘉納治五郎の柔道とはまた違う未知の可能性を模索しつつ、彼なりの柔道を考えていた姿が描かれています。

本書はアメリカの話に焦点を当てて柔術ブームについて書いていますが、柔術ブームとメディアや通信手段などの関わりにも触れている箇所があります。質はともかくとして多種多様な柔術の本が刊行され、新聞に柔術の記事が掲載され、各地に柔術を伝えに行くことが可能な鉄道網がある、そして何より海外に渡る手段がある、そういった社会と文化の関わりについても触れられており、関心をさらに広げることも可能な内容となっています。

20世一つの文化がどのように広まり定着していくのか、大衆消費社会、資本主義の世界の中で文化が消費されるなかで定着する、その一つの事例として見ることが出来るでしょうか。紀初頭、彗星の如く現れて消えていったアメリカにおける柔術ブームを題材とし、日本文化と欧米社会の関わりを描いた一冊です。

 

3月の読書

3月はこのような感じで本を読んでいます。ただ、3月は忙しいので、やはり読書ペースは大幅に落ちることが想定されます。

 

藪耕太郎「柔術狂時代」朝日新聞出版(朝日選書):読了
キアラン・カーソン琥珀取り」東京創元社:読了
長谷川岳男・村田菜々子(監修)「一冊でわかるギリシャ史」河出書房新社
イザーク・バーベリ「騎兵隊」松籟社:読了

 

清水亮「中世武士 畠山重忠」吉川弘文館

2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は源頼朝による鎌倉幕府設立と、鎌倉幕府初期の抗争や承久の乱勝利者となった北条義時を扱った物語です。そこには鎌倉時代初期の有力武士たちも数多く登場しますが、その一人として畠山重忠という武士がいます。知勇兼備、廉直にして関東武士の代表的存在のようなイメージがある人物です。御嶽神社に奉納され、東京国立博物館にそのレプリカがある緋縅の大鎧は彼が奉納したものだといわれています。

東武士の鑑、御家人の代表的存在のようなイメージがある重忠ですが、頼朝挙兵当初、彼が平氏方につき頼朝と敵対し、後に従うようになったというと意外に思う人もいるかもしれません。また、頼朝も重忠を厚く遇するいっぽうで警戒していたようなふしもみられますし、重忠もまた頼朝に対し自立心を隠さないところがみられます。重忠をそこまで警戒し、牽制するような対応を頼朝が取ったのはなぜか、そして重忠が頼朝に対しても臆することなく批判的な言葉を発したりできたのはなぜか、その背景にあるものを探っていくとなかなか興味深いことがわかってきます。

本書は重忠の属する平良文の流れを汲む秩父平氏がどのようにして勢力を広げていったのか、畠山氏がどのように勢力を拡大・維持していったのか、重忠が頼朝に従うようになってからの関係はどのようなものかを示していきます。秩父平氏の武士たちの姻戚関係に基づく結びつきと勢力拡大、在地領主である東国の武士たちが水陸交通の要所、館、寺社のセットで支配領域を形成しているなか畠山重忠が所領をどこに形成していたのか、そして近隣の武士を動員できる軍事的テリトリーなど、重忠の勢力範囲がどのように形成・維持されていたのか、さらに京都との結びつきがどのようなものだったのかを示していきます。重忠と京都との結びつきがみられる様子があることや、京都の文化が東国にも伝わっていることが考古学の成果からもわかるなど、東国の在地領主的武士と京都との結びつきが結構強いことがよくわかる内容となっています。

絵巻物の「男衾三郎絵詞」にでてくる男衾三郎畠山重忠を、吉見次郎は重忠と所領を巡って争った吉見氏をモデルにしているなどなどと言いますが、京都との結びつきや京の文化を所領にもたらしていること、そして重忠自身が音曲にも通じていたということからは、吉見次郎が持つ要素も重忠には含まれているように感じられます。

そんな重忠は頼朝に従うようになり、兵士との戦いや奥州合戦にも従軍します。しかし頼朝死後に勃発した鎌倉幕府御家人同士の対立抗争のなか、最終的に北条氏と対立して滅ぼされました。重忠と頼朝の関係はかなり緊張感を孕んだもので、重忠は頼朝から重んじられる一方で幕府の意思決定には関わらないという存在で、頼朝も別の秩父平氏を時に重く用いるなど重忠を牽制するような動きをとっていたりもします。また、御家人同士の対立抗争のなかで重忠が自らの勢力拡大のためリアリスティックにふるまう姿が随所にみられます。そして、重忠滅亡後、秩父平氏の武士たちは歴史の流れの中にうもれていくのですが、畠山氏が源姓畠山氏として再興され、足利幕府でも重要な存在となって行ったことにもふれられています。

重忠が廉直な武士として頼朝にも率直な物言いをできるのは、軍事貴族に連なる秩父平氏の棟梁であるという武家としての格によるところが大きいことがしめされています。頼朝の天下草創と幕府の発展の過程で消えていった己の格や勢力に対し誇りを持ち自立的な振る舞いを見せる東国武士の一人としての重忠、手柄について鷹揚なところもある一方で自分の軍事的テリトリーや所領の拡大のためにはシビア、かつリアリストとして振る舞う在地領主としての重忠、京都とのつながりをもち音曲にも通じ、京都の文化を所領にもたらす広域支配者としての重忠、そういった姿が描き出されています。重忠という一人の武士の生涯を描き出しながら、当時の在地領主である武士がどのような存在なのかがよくわかる一冊です。

デイヴィド・アブラフィア(高山博監訳、佐藤昇・藤崎衛・田瀬望訳)「地中海と人間 I•II」藤原書店

人類と海の関わりは古代から現代まで様々な形がとられ、海の世界を題材とした本は色々なものが出されています。そのなかでも地中海というと、ブローデル「地中海」が代表的な著作として取り上げられることが多いです。地中海の環境、社会、そして出来事、これらが長期・中期・短期という時間の三層構造としてとらえながら、フェリペ2世時代の地中海の歴史を扱うという感じの本でした。出来事の歴史よりも社会、そして環境といったものに重きが置かれた著作だったような印象があります。それに対し、アブラフィアの「地中海と人間」は地中海における人間の交流に重きが置かれ、旧石器時代から現代に至るまでの地中海を舞台とした様々な勢力の興亡や交流の歴史を描き出しています。

本書は地中海の歴史を5部に分けてとらえ、描き出しています。第一の地中海が旧石器時代から青銅器時代の終わりまでをあつかい、地中海を舞台にした活発な交流と衝突が描かれ、第二の地中海としてフェニキア人やギリシア人の活発な活動の時代から、ローマ帝国による「我らの海」の実現とそれの崩壊が扱われます。第三の地中海はイスラム勢力の地中海進出とキリスト教勢力との抗争、そして地中海を舞台に展開された交易、特にヴェネツィアなどイタリア都市の動きが多くみられます。

第四の地中海はペスト流行による打撃から回復していく時代、地中海ではオスマン帝国の進出とそれに対するキリスト教徒の対応や、地中海で活動する海賊たち(ヨハネ騎士団や北アフリカの海賊たちなど)の活動が扱われ、第五の地中海が19世紀から現代、地中海に面しているわけではないロシアやイギリス、アメリカといった国々が政治など様々な要因からこの海に進出しようと試み、イギリスのように拠点を築く国も現れることや、諸集団の交流・共生の場のようであった地中海においてすら民族による分断が現代には生じたことが対象となります。地中海観光もここで扱われています。

いっとき、「社会史」がブームとなっていた頃はなんとなく政治や軍事の歴史は軽視されているような雰囲気もありました。しかし政治や軍事といった人間の活動は社会を理解する上でも必要で、例えば交易に従事する商人たちが安心して活動できるかどうかは、海の安全が保たれるか、必要な物資の補給が受けられるように寄港地を確保できているか、そういったことにかかっています。本書では地中海を舞台に様々な集団の交流と衝突が展開され、人間集団が織りなす出来事の歴史について、様々な事例、多くの場所や集団が取り上げられています。地中海世界を舞台とした交易のネットワークや地中海における人々の混淆が危機の時代をへて形や規模を変化させつつ続いている様子や、地中海をめぐる諸勢力の覇権抗争が描かれています。

「出来事」の歴史を重視しながら描き出された地中海世界の通史は、具体的な事例が豊富であり、2冊、それもどちらも大部となると読むのが大変と思うかもしれませんが訳文は非常に読みやすいです。ブローデルの「地中海」が正直邦訳が良くないのか非常に読みづらく内容理解を難しくしているのではないかとさえ思えるのですが、事例が多いことによる大変さはさておき読んで意味が分かりづらいことによる大変さを感じることはそんなにない仕上がりだと思います。大部で情報量が非常に多い本ですが、読みやすい文章で書かれており、多くの人に挑戦してほしい著作です。

 

2月の読書

2月になりました。正直2月は忙しく、果たしてまともに本を読めるかも微妙な状況です。まあ、何とか読みたいとは思いますが。
それはさておいて、このような本を読んでいます。

Adrian Goldsworthy「Philip and Alexander」Head of Zeus:読了
清水亮「中世武士 畠山重忠吉川弘文館:読了
デイヴィド・アブラフィア「地中海と人間 II」藤原書店:読了

 

前田弘毅「アッバース1世」山川出版社(世界史リブレット人)

世界史リブレット久しぶりの新刊はイランのサファヴィー朝中興の祖、アッバース1世となりました。昔自分のサイトでアッバース1世の話題を取り上げた時には彼について扱った本がなく(その後、デイヴィッド・ブロー「アッバース大王」が出ましたが、記事を書いてからだいぶ経ってからだったので当然執筆には使えず)、中公の世界の歴史や洋書で取り寄せたサファヴィー朝通史、イラン史のサファヴィー朝の項目で何とかした覚えがあります。

そんなアッバース1世について、サファヴィー朝を専門とする著者の手でコンパクトにまとめられた伝記が出ました。シリーズのラインナップをみていて、出るのはいつかなと思って待っていましたが、ようやく出たのはありがたいことです。本書の構成はアッバースが生まれた世界について、イラン高原の地理的環境やアッバース即位前までのサファァヴィー朝の概略を扱い、不安定な国内の秩序回復、軍制改革や集権化、イスファハーンの建設などアッバースによるサファヴィー朝の再建が続きます。その後でウズベクオスマン朝との戦いと領土回復、新都イスファハーンなど大規模な造営事業、正統シーア派国家の建設、コーカサス系人材の取り込み、ヨーロッパとの関係構築といった主だった業績がまとめられていきます。

そして、この後でイスファハーンについて一章をさき、帝国のショーウィンドウたるこの都市について、公共空間である広場の役割、コーヒーハウスの賑わいや女性とこの都市の関わり、都市を舞台に栄えた学問や芸術といったことが扱われています。なお、この章ではアッバースの人柄についてもかなりページが割かれており、市井の人々との交流を好みお忍びでイスファハーンを視察したということや、暗殺を恐れかなり慎重な振る舞いを見せるところもあったことなどが触れられています。またもてなし好きで陽気な人柄を伝える逸話がある一方で規律を厳格に守る人物で、彼のさまざまな人々に対する苛烈な対応を伝える逸話や出来事も多く見られます。仕事も遊びも精力的に取り組み、好奇心旺盛、宗教に対しては功利主義的な対応をとりながら、政治面では保守的で細心かつ慎重といった、魅力的だが近寄り難い人物像が浮かび上がります。また、市井の人々との接し方や前線の兵士に対する振る舞いなど、民衆にうけそうなところも結構あります。

著者はサファヴィー朝コーカサス系奴隷軍人に関する書物を書いています。そうしたことも関係するかとおもわれますが、コーカサス出身者の果たした役割についてまとまった記述が見られます。アッバースによるコーカサス系人材「登用」が強制的なリクルート、出身地ごと取り込み秩序構造の再編までせまるもので、統合政策に対する反発も見られたが(鎮圧には成功しますが大規模な反乱に発展するものもあった)、コーカサス系人材はその後もサファヴィー朝の中枢で重要な役割を果たし続けたことが述べられています。イラン系官僚とトルコ系遊牧民の軍事力という構造から王とその取り巻きによる集権的な国家への変貌、それとコーカサス系人材の関わりといったところは本書の中でもなかなか興味深く読みました。

全体を通じ、アッバースによる国家再興、国土再編の取り組みを通じてイランが領域的一体性と宗教的オリジナリティを獲得し、それが後の時代にも継承されているということ、アッバースの時代に東西交易路にくわえて海に繋がる南北のルートを整備し、海と王朝を結びつけたことを示していきます。「イラン」の歴史を考えたときに、彼の重要性がよくわかる一冊です。

1月の読書

1月となりました。今月はこんな本を読んでいます。

前田弘毅「アッバース1世」山川出版社(世界史リブレット人):読了
松井透「世界市場の形成」筑摩書房ちくま学芸文庫):読書中
安倍雅史「謎の海洋王国ディルムン」中央公論新社(中公新書):読了
庄声「帝国を創った言語政策」京都大学学術出版界:読了
デイヴィド・アブラフィア「地中海と人間 II」藤原書店: 読書中
デイヴィド・アブラフィア「地中海と人間 I」藤原書店:読了

 

今年のベスト

今年のベストをそろそろ決めようと思いましたが、今年は例年以上に絞るのが難しかったです。色々と刺激を受けた本が多かったということも大きいですが、こうはんは冊数が減った割に面白いものに当たる率が高く、感想を大量に書いてしまったことが原因です。とりあえず四捨五入して10になる範囲内で絞ろうと思いましたが、結局こうなりました。さすがに20冊はどうかとおもったのですが、厳しいです、はい。

(1)ギリシアとかローマ関係 *(4)に回したものあり
岸本廣大「古代ギリシアの連邦 ポリスを超えた共同体」京都大学学術出版会
金原保夫「トラキアの考古学」同成社
佐良土茂樹「コーチングの哲学 スポーツと美徳」青土社
プルタルコス(城江良和訳)「英雄伝6」京都大学学術出版会(西洋古典叢書
*福山佑子「ダムナティオ・メモリアエ」岩波書店

自分の趣味嗜好からギリシア・ローマものは色々と手を出して読んでいました。そのなかから面白かったものを選ぶと、このようになりました。なお、*の「ダムナティオ・メモリアエ」の本は本当は昨年感想を書くべきものが大幅に遅れ、上半期に入れるのもできず、結局今年のベストに繰り越しとなりました。古代ギリシアの連邦について扱った本やトラキアのことを扱った本が読めたのは面白かったですし、アリストテレス倫理学とスポーツのコーチングを考えるというのもなかなか面白い趣向だと思いました。そしてプルタルコスが読みやすい文章で完全に訳されたのは実にありがたいことでした。

(2)歴史関係 *(4)に回したものあり
小島庸平「サラ金の歴史」中央公論新社中公新書
籾山明「増補版 漢帝国と辺境社会」志学
平田陽一郎「隋唐帝国形成期における軍事と外交」汲古書院
会田大輔「南北朝時代 五胡十六国から隋の統一まで」中央公論新社中公新書

ギリシア・ローマもの以外の歴史本もいくつか読んでいますが、その中で絞るとこのようになりました。現代日本に関する本をここに載せるというのは結構珍しいような気がしますが、「サラ金の歴史」は読んでほしいです。これ面白いです。そして復刊された「漢帝国と辺境社会」は同社からでている「木簡学入門」を合わせて読むとさらに理解が深まるような気がします。「隋唐帝国形成期における軍事と外交」は、隋唐の軍事に関してかなり刺激的な論を展開しており、今後参照されることになるだろうなあと思います。そして、隋の統一までを扱う「南北朝時代」はなかなか掴みにくいこの時代についてコンパクトにまとまっておりおすすめです。

(3)小説
ビアンカ・ピッツォルノ(中山エツコ訳)「ミシンの見る夢」河出書房新社
マデリン・ミラー(野沢佳織訳)「キルケ」作品社
リュドミラ・ウリツカヤ(前田和泉訳)「緑の天幕」新潮社
ウォルター・テヴィス(小澤身和子訳)「クィーンズ・ギャンビット」新潮社(新潮文庫
ジョゼ・サラマーゴ(木下眞穂訳)「象の旅」書肆侃侃房

小説もいくつか読み、絞ろうと思いましたがなかなか難しいですね。「隷王戦記」は3巻目が出てから評価はすべきかと思い外しております。やはり完結してから、トータルで評価をするべきかなと思いました。「ミシンの見る夢」「キルケ」「クィーンズ・ギャンビット」と女性を主人公とした本が多くなりましたが、色々と面白そうな本を見かけて読んでいたらそうなったと申しますか。今だからこそ書けたと思う本もあり、これがこんな昔に書かれたとは思うものもあり、実に充実した読書となりました。サラマーゴ「象の旅」はスペインからオーストリアに象を連れていくというだけなのですが、その合間に挟まれた挿話や出来事が後からじんわりと面白さを感じてくる、穏やかながらも後に響くような本でした。

(4)女性史関係
黒田基樹「今川のおんな家長 寿桂尼平凡社
山田貴司「ガラシャ つくられた「戦国のヒロイン」」平凡社
エドワード・J・ワッツ(中西恭子訳)「ヒュパティア 後期ローマ社会の女性知識人」白水社

歴史の書籍で女性の登場人物が扱われた本というのは、どうも少ないです。史料の制約もあり研究者の視点の取り方もありといったところが理由なのでしょうか。近年になって女性史研究が活況を呈しており、西洋古代史にせよ日本史にせよ、女性を扱った本は結構出されるようになっています。残された史料の偏向などを取り除きながら可能な限り生涯を描き出し、さらに死後どのように彼女が捉えられてきたのかを描く「ヒュパティア」「ガラシャ」は結構一般にも知られている人々のイメージがどのように形成されるのかを考えさせられます。そして「今川のおんな家長 寿桂尼」は寿桂尼の実像を描き出し、戦国時代にどのくらいの役割を果たしていたのかが示されています。そして「寿桂尼」のあとがきで示された問題意識はもっと広く共有されるべきことなのではないかと思います。

 

下半期ベスト

さて、下半期のベストからまず選びましょうか。
11月と12月があまり本を読む時間が取れず、さっすはだいぶ減りましたが、面白いものに当たりました。むしろ選ぶのが大変になったような気がします。

リュドミラ・ウリツカヤ(前田和泉訳)「緑の天幕」新潮社
山田貴司「ガラシャ つくられた「戦国のヒロイン」」平凡社
籾山明「増補版 漢帝国と辺境社会」志学
エドワード・J・ワッツ(中西恭子訳)「ヒュパティア 後期ローマ社会の女性知識人」白水社
会田大輔「南北朝時代 五胡十六国から隋の統一まで」中央公論新社中公新書
ジョゼ・サラマーゴ(木下眞穂訳)「象の旅」書肆侃侃房
エリック・ジェイガー(栗木さつき訳)「最後の決闘裁判」早川書房(ハヤカワ文庫NF)
金原保夫「トラキアの考古学」同成社
森三樹三郎「梁の武帝 仏教王朝の悲劇」法蔵館法蔵館文庫)
フィリップ・リーヴ(井辻朱美訳)「アーサー王ここに眠る」東京創元社
ウォルター・テヴィス(小澤身和子訳)「クィーンズ・ギャンビット」新潮社(新潮文庫

これらの本を下半期ベストにしたいとおもいます。いや、削った本も泣く泣く外したというところなのですが、小説で面白いものが結構多く、それを残した結果こうなりました。

 
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リュドミラ・ウリツカヤ(前田和泉訳)「緑の天幕」新潮社

ソヴィエト社会主義共和国連邦がまだ外の世界からは輝きを持って見られていた頃、ある学校にてイリヤサーニャ、ミーハの3人が出会いました。3人とも学校社会のなかでは傍流に属する(今風に言えばスクールカースト下層か)ものの、如才なく振る舞うイリヤ、革命前の良家の流れと思われ音楽家志望のサーニャ赤毛ユダヤ系で詩を愛するミーハは友情を深め、さらに学校生活の途中から担任となったシェンゲリ先生の導きにより文学への愛に目覚めていきます。卒業後はそれぞれの道を歩みますが、彼らのつながりはソ連の歩みのさまざまな場面に顔を覗かせます。

そんな彼らの人生と同世代の女性3人オーリャ、タマーラ、ガーリャの人生が交錯していきます。ソ連的優等生から段々逸脱していいくオーリャ、ユダヤ系で研究職につくことになるタマーラ、体操選手への夢破れたのち結婚した相手は当局の人だったガーリャ、この3人の関係もまた独特なものがあります。彼、彼女らの人生及び、その人生にいろいろな形で関わった人々の物語が短編のように積み重ねられ、それを通じてソ連時代の雰囲気を描き出している一冊です。

ソヴィエト社会主義共和国連邦という国が存在した時代が終わってからもう四半世紀がたちました。もはや歴史の一部として扱われるようになってきているソ連がどのような国家だったのかというと、抑圧や監視、統制により人々がある一定の方向に向かい生きていく国家という感じがします。しかしそのような国であっても、国の定めた枠組みや道筋から外れる者が現れてきます。様々な手段で監視の目をかいくぐり、政府にとり都合の悪いものを刊行したり発表する、そんな人々がいました。

スターリンの死からソ連の崩壊数年後までの半世紀近い時代をあつかい、その時代のソ連に生きた市井の人々の人間模様を通じ、ソ連時代の様子を描き出している本書ですが、登場人物の多くは「反体制派」の人々です(体制側・体制寄りと明確に言えるのはガーリャの夫とオーリャの母親でしょうか)。彼らは当局の目をかい潜り、さまざまな作家の文章を流通させたり、写真を流したりしています。本書ではイリヤとオーリャが非合法出版活動に深く関わっていく様子が描かれていますが、彼らを取り巻く、関わりを持つ「反体制派」の人々の姿が実に個性的だったりします。

ソ連にとって好ましからざるものをあの手この手で流通させようとする彼らは当然当局の取締対象となり、密告や監視、裏から手を回しながら少しずつ締め上げる(突然仕事がなくなるなど)、いろいろな手を使いながら追い詰めていきます。なお、著者も非合法出版物を読んでいることが発覚して失職したという経験があり、それと似たようなエピソードが本書においても見られます(著者はその後作家活動に転身し、現代ロシア有数の作家として成功をおさめていますが、物語の中のエピソードはもっと悲惨な結末を辿っています。周りから締め上げられ心折れた者の最期はこうなるよなとしか言いようがない展開でした)。

「反体制派」の人々が行っていることは、読みたいと思う本を読み、見たいと思うものを見る、そして語りたいことを語るといった、現代の日本に生きる人間の多くからすると、それは当たり前ではないかと思うことばかりです。しかし我々の多くにとり当たり前とおもうことが当たり前でなかったのが当時のソ連というところでしょうか。当局の意向に従い続けることが良いこととされる極めて窮屈な世界がそこにはあるようです。そんな困難な時代にいかに人間らしくいきるか、その拠り所となるのが本書では文学ということになるようです。

とはいえ、困難な時代に自分を守る拠り所として文学があるものの、それは決して万能ではなく、周りの流れに押し流されてしまうこともあります。スターリン死後、葬儀に押し寄せた群衆の流れのなか人々が圧死する場面が本書に描かれていますが、まさにそのような感じで、集団をまえに個人ではどうやっても抗えない、集団の意志や国家の権力に膝を屈せざるを得ないところはあるでしょう。さらに現代では国家権力だけでなく、SNS上で直接個人に向かう色々な人の反応もあり、旧ソ連とはまた違う困難があります。自分の意志では如何ともし難い、そんな時に自分を守ってくれるものは何なのか、かんがえておかないといけないのかもしれません。

色々と思うようにならないことにさらされ、生き方もそれに影響される、それでも人は生きていく、そんな様子がさまざまな人の生き方を積み重ねながら紡がれた物語、年末に読むにはちょうど良い一冊でした。そしてなにより大部でありながら読みやすい文章で、一気に引き込まれて読み切ってしまいました。そこから一気に書きたいことを書いた感じなので、かなり散漫な感想となってしまいましたが、見かけたらとにかく読んでほしいと思った本です。

山田貴司「ガラシャ つくられた「戦国のヒロイン」」平凡社

戦国時代に活躍した女性をあげろと言われると、数年前の大河ドラマをみていたり戦国時代に関心がある人だと、今年の春に本が出た寿桂尼の名があがるかもしれません(自分のブログでも感想を書きました)。しかし、一般的な知名度ではキリスト教に入信した大名夫人、関ヶ原合戦直前の壮絶な死など、インパクトのある話題もあり、細川ガラシャの名がまずあがるのではないでしょうか。明智光秀の娘、細川忠興の妻、美貌の敬虔なクリスチャンということで、運命に翻弄された「戦国のヒロイン」といった感じでとらえられてる感じがします(画像検索をかけると、そういう方向のようですし、なかにはどこかのアイドルか、魔女っ子か、プリキュアのメンバーかのようなゲームのキャラクターもいます)。

死後、さまざまなイメージで捉えられ、現在も色々な姿で現れてくるガラシャですが、生涯を辿ろうとすると、史料的な問題から、わからないことが多々あるようです。彼女にまつわるイメージがどのように形成され広まっていったのか、そして彼女の生涯は実際にはどのようなものだったのか、それを明らかにしようとするのが本書です。

前半ではガラシャの生涯をまとめています。まず、彼女に直接言及した史料というものが少なく、父である明智光秀についても信長に仕える前のことはわからないことが多いという、実像に迫るには極めて厳しい状況です。それゆえ、推測に頼らざるを得ないところも多いのですが、史料に即し、史実を積み重ねながら彼女の生涯にせまります。

近年の研究成果をもとに明智光秀の足取りを辿りながら、ガラシャがどこで生まれ、どのように成長していったのか、著者が最も可能性が高いと思われる論を展開して描き出しています。場所の特定や年齢、年代の特定を行いながら戦国乱世および本能寺の変とその後の状況に翻弄されたガラシャと兄弟姉妹の様子や彼女を取り巻く人々の様子が描かれています。光秀と医学、医師のネットワークのことや、ガラシャが宗教に対し強い関心を抱き、宗教について学ぶうえで、光秀をそれを取り巻く人々のネットワークが影響していることなど、推測の域ではあるものの興味深い指摘が見られ、なかなか面白いと思いました。

そして、ガラシャの生涯に大きな影響を与える細川忠興との結婚ですが、これについても光秀が織田家中での立場強化を狙った可能性があることが示されています。そして監視と統制のもとに置かれ万一の際には殺すという対応が決められていたことについては、忠興自身の個性に加えガラシャが「謀反人の娘」ということを忠興が気にしており、彼女および家の名誉を守るための対応だったということが書かれています。過剰なまでの名誉に対する忠興のこだわりが引き起こした悲劇、それが彼女の死だったというところでしょうか。現代的な見方に引き付けすぎであることは承知のうえでいうと、忠興はドメスティックバイオレンスモラルハラスメントという言葉が良く似合いますね(ガラシャキリスト教に改宗し、当初はキリスト教に否定的だった忠興もある程度認めるようになり、それとともに夫婦の関係もかなり改善はされるのですが)。

ガラシャキリスト教への入信について1章をさいて検討しています。秀吉による締め付けが強化される時期にガラシャキリスト教を信仰するようになりますが、入信したタイミングは何時ごろなのか、教会を訪問できないなど行動を制約される彼女がどのように洗礼を受けたのか、洗礼名はどのように決まったのか、周囲の人々は入信していったのかといったことを検討します。キリスト教徒の関係で言うと、ガラシャが死を選択することと自殺を認めないキリスト教の教えとの関係をどう考えればよいのかと言う問題が出てきますがこれにかんしては、ガラシャ接触があったのが適応主義路線で知られるイエズス会であったことが関係するようです。

こうした、ガラシャの生涯にまつわることを前半でまとめていますが、後半にはいると、ガラシャがどの様に受容されたのかを20世紀後半頃までの展開を追っていきます。ガラシャの受容史を描く後半は実に興味深い話題が展開されていきます。まず江戸時代においてはガラシャは大名の妻として家のために散った「節女」「烈女」としてみなされ、その際に子供2人を殺して自らも死んだという創作がひろまったことがとりあげられています。そして、彼女がキリスト教徒であるということは細川家の一部家譜にしか見られないということも指摘されています。

では、いま普通に広まっているキリスト教徒ということはどこから入ってくるのかというと、実は彼女の需要が日本の中だけでなく外でもみられたことが関係しています。イエズス会の報告などにより彼女の存在は伝えられていましたが、ヨーロッパにおいて迫害を受けながらも信仰を守り殉教した模範的かつ美貌のキリスト教ガラシャというイメージが広く定着して行ったことが述べられています。ガラシャを扱った音楽劇がつくられ、しかもそれを当時の神聖ローマ皇帝の家族がみて、彼女の生き様に感銘を受けたというほどだとはしりませんでした。このヨーロッパのガラシャ像と明治日本のガラシャ像が融合して行ったのが、現代に至るガラシャのイメージということになるようです。なお、「美貌のキリスト教徒」ということで、ガラシャの美貌イメージがどういう経緯で定着したのかも検討がなされています。

そして、現代のガラシャのイメージについては、自主自立、厳しい状況でも自らの道を貫き通した女性というイメージも広がってきているようです。後世における受容やイメージを見ると、当時の人々の理想像や女性のあり方がガラシャ像に投影されてきていることがよくわかります。いろいろな人々がさまざまな立場から彼女を解釈し、描き出す、それによりさまざまなガラシャ像が生まれ、広まっていく、そのプロセスがわかる内容でした。自分達の理想像を過去の人物に投影するということはしばしば見られることですが、それにより実像と違うイメージや出来事が伝えられてしまうところもあるようです(子供殺しのように)。そういったイメージを実態と違うということで切り捨ててしまうのではなく、そういうイメージが形成されるプロセスを探り、そこから当時の様子を捉えていくということも重要なことだと思います。ガラシャの生涯とその後の受容史を知りたい、そういう人にはもちろん薦めたいですし、歴史上の女性がどのように語られてきたのかということでも読んでおくべき一冊かなと思います。

 

12月の読書

12月になりました。今年も気がつくと1ヶ月を切りました。はたしてどうなることやら。

今月はこんな感じで本を読んでいます。

リュドミラ・ウリツカヤ「緑の天幕」新潮社:読了
山田貴司「ガラシャ つくられた「戦国のヒロイン」平凡社:読了
香山陽坪「砂漠と草原の遺宝」講談社(学術文庫):読了
曽田長人「スパルタを夢見た第三帝国講談社(選書メチエ):読了