まずはこの辺は読んでみよう

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小林亮介「近代チベット政治外交史」名古屋大学出版会

チベットというと、かつてこの地を支配したダライ=ラマの政権は国外に亡命し、中華人民共和国自治区であるが、仏教の活仏の選定にも中国政府の影響がおよぶなど、中国の領土の一部」としての支配強化が長年にわたり着々と進められている状況です。共産党の政権ができてからそのような方向に向かっていきましたが、辛亥革命の後、チベットが独立を宣言し、様々な事情も絡み,事実上独立状態が続いた時期がありました。

本書は、国際社会で「主権国家」として認知されておらず、また万国公法のような近代国際社会のルールとは明らかに違う論理のなかに存在するチベットのダライ=ラマ政権がどのようにしてイギリスやロシア、日本、清朝中華民国といかなる関係を築き、事実上の独立状態へと至ったのかを描き出していきます。その際に、イギリスなど列強の残した史料や中国側の史料だけでなくチベット側の残したチベット語で書かれた史料を多く用いながら、チベットの側から,彼らがどのような動きを取ったのか,どのような考え方のもとで行動したのかを明らかにしていきます。

まず、清朝とダライ=ラマ政権が施主と応響僧(寺と檀家のような感じか)の関係にあり、それが機能していた時代のことから始まります。チベットには駐蔵大臣を置き、理藩院の監督下でダライ=ラマ政権が支配を行っていました。また、チベット清朝の境界を定めるいっぽう、場所によっては有力者に官職を与えて(そういう者を土司という)現地の支配をある程度任せたり、それを中央の官僚に替える(改土帰流)などの対応を取っていました。

しかし、19世紀後半、清朝太平天国の乱による混乱などで苦しんだ時期、ダライ=ラマ政権がチベット東部で支配を強め、中央から官僚を送り支配するだけでなくダライ=ラマ政権が土司を取り込むようなことをしていた場所もあらわれ、清朝政府がそれを把握できていないということも発生します。しかし、混乱を乗り越えた清朝は藩部への支配強化を徐々に進め、チベットに対しても隣接する四川省漢人官僚中心に支配強化の取り組みが進みます。時期によっては漢人総督の振る舞いを駐防八旗の将軍が牽制するようなことも可能でしたが、チベットは守るべき中国の領土の一部とみなす漢人官僚主導の改革や支配強化が進み、それはダライ=ラマ政権からすると望ましくない面もありました。

一方、チベットはインドに隣接し、内陸交易路で中国にもつながることからイギリスがこの地への関心を強めています。イギリスとチベットの関係はある時期までは対立関係にあり、イギリスが武装した使節団を送り込んだこともあれば、チベットはイギリスに対抗するためロシアとの連携を模索するという事も見られました(なお、チベットはイギリスとの関係はのちに改善していきます)。ロシアとの連携はロシア領内のチベット仏教徒の存在がおおきく、モンゴルとチベット、その周辺におけるチベット仏教の存在の大きさが窺えます。

中国による支配強化が進む中、ダライ=ラマ13世はあるときはロシア方面、あるときはインドへと向かうなどチベットにいられない状況も経験します。そんな状況下、チベットの「独立」を考えはじめ、ロシアやイギリスとの連携、さらには日本やアメリカにも接近していきます。ただし、ダライ=ラマ政権は国際社会では国家として認められる存在ではなく、それ故に外国との間での関係構築も、正式な国交のようなものは作れず、「留学生」や「留学生の引率」という形でダライ=ラマの腹心や官僚を派遣して外部とのつながりを作ろうとしますし、チベット事情に関心を持つ東洋学者のネットワークを利用しながら欧米との関係を構築しようとする様子が見られます。これらは国際社会のルールに則った正規のルートが作れないがゆえの苦労というところでしょうか。

そして、辛亥革命勃発とともにチベットは独立を宣言することになりますが、あくまでもチベットは中国の領土の一部であり、中国の主権に服するという姿勢を取る中華民国との間で度々衝突が起こります。そしてチベット、中国、イギリスによるシムラ会議で、中国は条約に調印しないもののイギリスとチベットは条約を結び、ダライ=ラマ政権による事実上の独立状態、中国宗主権のもとでの自治が行われるようになります。その後もチベットの支配領域外にある僧院の存在が問題になったり、辺境を巡り中国と度々争うという事態も起こっていることが書かれています。

シムラ会議を扱った部分では3者の間での認識のずれや自治や独立、主権、宗主権と言った概念を巡る問題が取り扱われています。英語の史料では当たり前に出てくる宗主権や主権、独立、自治といった概念を当時のチベットがどのように考えていたのか,どこでどのようなずれが生じていたのかが、チベット語による会議記録から明らかにされており,興味深いものがありました。近代国際社会のルールから外れたところにいるチベットが,これに如何に対応しようとしたのか、本書の後半ではチベットの努力がうかがい知れる事柄が登場します。

本書を読んでいて、様々な勢力の間で同じ現象に向き合っているはずが、それぞれ認識にずれがあったり、各政治勢力の主たる政治的目標のずれや国際関係の概念の理解にずれがあることを感じさせる場面が多くみられました。まず19世紀後半、ダライ=ラマ政権による辺境支配が強化された時にしくみの内実を理解していなかった清朝、国家同士のやりとりでなくあくまで国内の中央と地方のやりとりにもちこみたい中華民国政府、チベットと中国の境界のあいまいさなどがみられます。

また、ダライ=ラマ政権が接触したアメリカの東洋学者とダライ=ラマの間で認識がずれている場面がみられます。ダライ=ラマ政権について著作を残したアメリカの東洋学者の方では、チベットは18世紀後半以来清の支配下にあったという論点を強調しています。しかし、その部分はダライ=ラマには通じないままで、ダライ=ラマのほうでは独立を主張するようになっていくという、端から見ると何が起きているのか不思議でならない場面が見られるのですが、とにかく何が何でも欧米との関係を構築し、それを通じて中国に対して独立への働きかけをして欲しいという、極めて切迫した状況があったようにも見えてきます(実際、清朝が四川から送り込んだ軍の進駐をうけ、ダライ=ラマがインドに逃げていた頃にこの様なことが起きています)。

そして、チベット側の独立を意味する言葉「ランツェン」がシムラ会議についてのイギリス側記録では「自治(autonomy)」にも「独立(independence)」にも使われたり、宗主権や主権というものについてチベット側があまり踏み込もうとしていない(宗主権とかについては独自の語彙を使って訳していない)ところがみられます。本書では条文のチベット語訳で「自治」の訳に「ランツェン」をあてたことについてはチベット側が仕方なく妥協したという形ではなく、そこに積極的意義を見いだしていく姿勢を取っています。施主と応響僧の関係のもと対等とする清=チベット関係が崩れるなか、主権や宗主権といった問題にはあえて踏み込まず、とにかく中国の支配を可能な限り無力化して、実質的独立を達成しようというのがチベット側の意図ですが、それが果たしてどこまで効果を上げたのかはなかなか評価は難しいように感じました。しかしながら、チベット側がどのように考えていたのか、どのような動きをとったのかを、欧米や日本の記録や中国の記録だけに頼らずチベット語史料を多く用いながら描き出しているところが本書の重要なポイントだと思います。

この時期のアジア各地ではヨーロッパ発の国際秩序である主権国家体制、そこで機能する万国公法といったものにどう対応するのか、それに向けた努力が様々な形で現れてきます。近代日本や中国で見られた様々な努力は言うに及ばず、モンゴルでも独立を宣言する頃には万国公法をモンゴル語訳していたといいます。自分たちにない概念を如何に取り込み、それを表す語彙を如何に作り出すのか、そのために費やされた時間や労力は察するにあまりあるところです。それと比べたとき、チベットの場合は曖昧さを多く残した状態で事実上の独立状態が結果的に実現できてしまったわけですが、それがその後の歴史にも影響を与えているように思えてなりません。東アジア・東部ユーラシア諸国の進む道が色々と分かれていく,その分岐点がどこにあったのか、それを考えてみたくなる一冊でした。