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しがない読書感想ブログです。teacupが終了したため移転することと相成りました。

清水亮「中世武士 畠山重忠」吉川弘文館

2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は源頼朝による鎌倉幕府設立と、鎌倉幕府初期の抗争や承久の乱勝利者となった北条義時を扱った物語です。そこには鎌倉時代初期の有力武士たちも数多く登場しますが、その一人として畠山重忠という武士がいます。知勇兼備、廉直にして関東武士の代表的存在のようなイメージがある人物です。御嶽神社に奉納され、東京国立博物館にそのレプリカがある緋縅の大鎧は彼が奉納したものだといわれています。

東武士の鑑、御家人の代表的存在のようなイメージがある重忠ですが、頼朝挙兵当初、彼が平氏方につき頼朝と敵対し、後に従うようになったというと意外に思う人もいるかもしれません。また、頼朝も重忠を厚く遇するいっぽうで警戒していたようなふしもみられますし、重忠もまた頼朝に対し自立心を隠さないところがみられます。重忠をそこまで警戒し、牽制するような対応を頼朝が取ったのはなぜか、そして重忠が頼朝に対しても臆することなく批判的な言葉を発したりできたのはなぜか、その背景にあるものを探っていくとなかなか興味深いことがわかってきます。

本書は重忠の属する平良文の流れを汲む秩父平氏がどのようにして勢力を広げていったのか、畠山氏がどのように勢力を拡大・維持していったのか、重忠が頼朝に従うようになってからの関係はどのようなものかを示していきます。秩父平氏の武士たちの姻戚関係に基づく結びつきと勢力拡大、在地領主である東国の武士たちが水陸交通の要所、館、寺社のセットで支配領域を形成しているなか畠山重忠が所領をどこに形成していたのか、そして近隣の武士を動員できる軍事的テリトリーなど、重忠の勢力範囲がどのように形成・維持されていたのか、さらに京都との結びつきがどのようなものだったのかを示していきます。重忠と京都との結びつきがみられる様子があることや、京都の文化が東国にも伝わっていることが考古学の成果からもわかるなど、東国の在地領主的武士と京都との結びつきが結構強いことがよくわかる内容となっています。

絵巻物の「男衾三郎絵詞」にでてくる男衾三郎畠山重忠を、吉見次郎は重忠と所領を巡って争った吉見氏をモデルにしているなどなどと言いますが、京都との結びつきや京の文化を所領にもたらしていること、そして重忠自身が音曲にも通じていたということからは、吉見次郎が持つ要素も重忠には含まれているように感じられます。

そんな重忠は頼朝に従うようになり、兵士との戦いや奥州合戦にも従軍します。しかし頼朝死後に勃発した鎌倉幕府御家人同士の対立抗争のなか、最終的に北条氏と対立して滅ぼされました。重忠と頼朝の関係はかなり緊張感を孕んだもので、重忠は頼朝から重んじられる一方で幕府の意思決定には関わらないという存在で、頼朝も別の秩父平氏を時に重く用いるなど重忠を牽制するような動きをとっていたりもします。また、御家人同士の対立抗争のなかで重忠が自らの勢力拡大のためリアリスティックにふるまう姿が随所にみられます。そして、重忠滅亡後、秩父平氏の武士たちは歴史の流れの中にうもれていくのですが、畠山氏が源姓畠山氏として再興され、足利幕府でも重要な存在となって行ったことにもふれられています。

重忠が廉直な武士として頼朝にも率直な物言いをできるのは、軍事貴族に連なる秩父平氏の棟梁であるという武家としての格によるところが大きいことがしめされています。頼朝の天下草創と幕府の発展の過程で消えていった己の格や勢力に対し誇りを持ち自立的な振る舞いを見せる東国武士の一人としての重忠、手柄について鷹揚なところもある一方で自分の軍事的テリトリーや所領の拡大のためにはシビア、かつリアリストとして振る舞う在地領主としての重忠、京都とのつながりをもち音曲にも通じ、京都の文化を所領にもたらす広域支配者としての重忠、そういった姿が描き出されています。重忠という一人の武士の生涯を描き出しながら、当時の在地領主である武士がどのような存在なのかがよくわかる一冊です。