まずはこの辺は読んでみよう

しがない読書感想ブログです。teacupが終了したため移転することと相成りました。

8月の読書

8月になりました。こんな感じで本を読んでいます。

オーランド・ファイジズ「ナターシャの踊り(上)」白水社:読了
柴宜弘「ユーゴスラビア現代史 新版」岩波書店岩波文庫):読了
高村聰史「〈軍港都市〉横須賀」吉川弘文館:読了
菅豊「鷹将軍と鶴の味噌汁」講談社(選書メチエ):読了
佐々木徹「慶長遣欧使節吉川弘文館:読了
関幸彦「刀伊の入寇中央公論新社中公新書):読了
森山光太郎「隷王戦記2 カイクバードの裁定」早川書房(ハヤカワ文庫):読了
井上文則「シルクロードローマ帝国の興亡」文藝春秋(文春新書):読了
フィリップ・リーヴ「アーサー王ここに眠る」東京創元社:読了
高村聰史「〈軍港都市〉横須賀」吉川弘文館:読了
佐藤岳詩「心とからだの倫理学筑摩書房ちくまプリマー新書):読了
アンドルス・キヴィラフク「蛇の言葉を話した男」河出書房新社:読了
フィリップ・C・アーモンド「英国の仏教発見」法蔵館法蔵館文庫):読了
設樂國廣「アブドゥルハミド2世」清水書院:読了

葛兆光(橋本昭典訳)「中国は“中国”なのか 「宅茲中国」のイメージと現実」東方書店

「中国」という言葉でイメージされる領域はどこからどこまでを指すのか。また中国をどのように捉えるのか。初出は紀元前11世紀の青銅器銘文である「中国」という言葉にはさまざまなイメージがこれまで投影されてきました。

「中国」とはなにかという問いに対して、中国自身がどのように対応してきたのかだけでなく、日本、そして欧米で「中国」をどのように捉えてきたのか、例えば東アジアのなかにおける中国、元や清の研究からみたユーラシア世界の一部としての中国といった、漢民族国家としての中国という捉え方と違う見方が提示されています。さらに「想像の共同体」論など流行の理論に乗り、それに当て嵌める形で中国について考察する論もみられます。

本書では、歴史の流れのなかで「中国」についてどのように人々がとらえてきたのか、そして中国に接した他国・他地域の人々がどのように考えていたのか、さらに学術研究の場面で中国をどのように捉えてきたのかをまとめています。

扱われている内容を見ると、いわゆる「セン淵体制」下で境界を意識させられた宋代における「中国」意識の顕現、地図や『職貢図』『山海教』などにみられた具体的かつより正確な情報を集積しつつ、一方で観念的・理念的な世界観も残り続ける有様、華夷変態をへた中国に対して朝鮮や日本が向けた優越感を含んだまなざし、清末民国初頭にかけてみられた「アジア主義」言説といった「中国」をめぐる思想的な動向を扱った内容がまずみられます。

さらに、アジアや中国に関わる学術研究の進展との関わりにも触れられています。満州、モンゴル、チベットなど、中国の“周辺”をめぐる研究がどのような背景のもとで進められていったのか、「西域」や「東アジア海域」といった伝統的な中国研究の枠組みを超えた領域を扱う研究の持つ意味や問題点にもふれられています。さらに日本に対する中国の影響を考えるにあたり、道教の日本への影響がとりあげられています。こうした学術研究の歴史をあつかいつつ、中国の学術が日本や西洋の学術と接する中で近代中国の学術発展にどう影響したのかといったことも考えていく内容となっています。

本書は「中国」をめぐるイメージがどのように変わり、現実はどのようであったのか、その一端を知ることができる内容であるとともに、学術研究のあり方について色々と考えさせられる内容が含まれています。学術研究の場でも、政治や文化、社会的な制約から自由になるのは難しく、そのことは日本における満州やモンゴル、チベットなどの研究の背景、津田左右吉の中国文化と日本文化に対する見方のジレンマなどにそれは現れています。

本書の姿勢としては学術研究と政治的背景の関わりを重くみるというところがみられ、それに関しては随所でふれられていますが、そのこと以外で個人的に興味深いところを挙げると、他地域の研究と張り合う・競争することを通じ何か独自の学術を立ち上げようというところでしょうか。まず、序章でみられるさまざまな研究動向の紹介とそれに対する姿勢にそれが現れているように思います。

日本の学術書や論文を読んでいると、ある理論を援用して物を書くことや新しい研究動向に乗って研究を進めることは至って普通のことのように思えてきます。「想像の共同体」論が流行ればそれに乗っかった論文や著作が次々に現れる、ポストモダンなどの流行り物で使われている用語を多用する、最先端の理論をすぐさま反映した内容の本や論文が書かれていく、こう言った状況に遭遇した人は多いでしょう。

これに対し、本書ではさまざまな研究動向を取り上げるのですが、それに寄りかかるのではなく、それぞれの理論について検討を加えながら、理論によりかかるのではない歴史論述をめざしていくというスタイルをとっています。そして「想像の共同体」論に対する姿勢にも現れていますが、特にポストモダン的な視点に対しては、それが極めて特殊な状況で生まれたものであり、ヨーロッパでは適応できても果たしてそれ以外では同じように扱えるのか、かなり厳しく捉えているところがあります。他方、中国については古くから文化的まとまりが作られてきたこと、「中国」の境界も宋代あたりにある程度つくられてきていることなどを挙げ、ヨーロッパの理論では捉えきれないというかんじの著者の書きぶりからは、近年の中国の存在感のさらなる増大、意識の変化が見られると言うと少々言い過ぎでしょうか。

学術に関しても日本や西洋からの衝撃をうけた中国の側で、それまでの学術のあゆみをふまえたうえで、今後中国が「中国」をどう捉えるのか。本書は新たな視点の取り方を模索し「周辺から中国を見る」という方法をとりながら中国を描き出そうとしています。正直なところ、読むのが楽とは決して言えない(むしろかなり骨の折れる読書となりました。そのため感想を書くのが大幅に遅れたのですが)、しかし分野の違いを問わず読んでおくべき一冊だと思います。

ウォルター・テヴィス(小澤身和子訳)「クイーンズ・ギャンビット」新潮社(新潮文庫)

最近ではテレビや映画で最初に流されるのではなく、Netflixなど動画配信サービスからで配信された作品がテレビで放送されたり、アカデミー賞でも候補に挙がってくるなど、ネットでの動画配信が盛んになり、若い世代に関して言うと恐らくネット配信の方が中心であるかのように見えます。

そんなネット配信作品の一つが今回感想を書いている「クイーンズ・ギャンビット」です。ドラマが人気になったことがきっかけで、1983年に書かれた原作小説の方も翻訳が出されることになったという事情は今の時代らしいところです。

物語は1960年代、交通事故で母親を亡くし孤児となったエリザベス(ベス)・ハーモンが孤児院メスーエン・ホームに入るところから始まります。ここでは孤児達にたいしビタミン剤や精神安定剤が配られており、この時与えられた精神安定剤への依存にベスは長年苦しむことになります。しかし、ベスと長い付き合いとなるのは精神安定剤だけではありませんでした。

孤児院の用務員シャイベルからチェスを習い始めたベスは瞬く間に才能を開花かせ、めきめきと成長していきます。身近な大人や高校のチェス部員程度では相手にならないレベルになったベスはウィートリー夫人に引き取られます。それからもチェスの本を入手したり本屋で読んだりして勉強していたベスですが、ケンタッキー州の大会に出ることになり、そこで次々と勝利を重ね、遂に優勝してしまいます。

やがて夫と別れたウィートリー夫人と一緒にベスは各地の大会に参加し、次々と勝利を収め続けます。この頃夫と別れていたウィートリー夫人に連れられる形でベスは参加した数々の大会で優勝して、天才少女として名をはせるようになっていきます。ウィートリー夫人とベスの関係ですが、彼女はいわゆる「ステージママ」という感じではなく、かといってベスに無関心という感じでも無く、ほどほどにうまく付き合い、支え合うという感じを受けました。

一方、夫と別れた後酒量が増えてきたウィートリー夫人と一緒にいるなかでベスは10代にして飲酒を覚え、精神安定剤のみならずアルコール依存にも苦しみながら、彼女はチェスの世界で活躍を続け、遂に当時最強の棋士だったソ連のボルゴフとの勝負に臨む事になります。果たして勝負の行方はいかに、という物語です。

本書の舞台となるのは主に1960年代、まだまだ男女の差別が色濃く残った時代です。チェスで彼女と戦うとき露骨に敵意をむき出しにしたりなめた態度をとり、敗れると腹を立てる男性棋士の姿が見られますが、その辺りは女のくせにという意識が現れているようです。さらに、天才少女として取材を受ける際の紋切り型の質問のオンパレードに見られるように、チェスは男の世界のような認識は女性側にもあるようです。こうしたほとんどが男というチェスの世界に飛び込み、勝利を重ね頂点を目指すベスの姿に惹かれる人は多いでしょう。

また、女性キャラクターに協力的な男性が登場する場合、結局男性の助けがないとうまくいかないというパターンが色々な作品でみられます。本作でも、読んでいる途中でそういう展開になるのかなと思わされる所があり、ベスが頂点を目指す過程で、彼女にこてんぱんにやられた後、彼女の協力者となる男性チェス棋士が複数登場します。しかし、本書で見られるのはベスが彼らの助けがなくしては勝てないと言う描かれ方ではなく、彼らの協力をうけつつ、彼らを遙かに超える能力を身につけ自ら道を切り開きより高みに登っていく展開であり、その最たるものが、ボルゴフとの3度目の決戦の終盤でしょう。

本書ではベスに関わった様々な女性達が描かれていますが、この中でウィートリー夫人と並んで重要なのは孤児院時代に知りあった黒人のジョリーンでしょう。彼女とベスは仲が良かったものの、ある出来事(これがベスにとっての性の目覚めだとすると少々酷なような)がきっかけで疎遠になり、ベスが養子に取られた時点で一度わかれたものの、物語の終盤、危うい状態に陥っていたベスの助けとなると言う、重要なキャラクターとなっています。

黒人と言うことで苦労を強いられながら大学で学び修士課程に進み道を開こうとするジョリーン、チェスの世界に飛び込み頂点を目指すベス、どちらも自らの手で道を切り開かんとする女性として書かれているように感じました。物語の結末は、ベスが自らの手で運命を切り開き、決して楽な道ではないけれども頂点に至る道をしっかり見据え、希望に満ちた終わり方となっています。著者はこの作品を書いた翌年に死去してしまったため、この後の展開については分からないのですが、続編を造るとしたらどういう展開になっていたのか、非常に興味深いです。

主人公がふとしたことから才能を開花させ、困難に立ち向かいながら道を切り開いていくという展開は少年漫画などでもよく見られる展開ですが、それを女性を主人公とし、男の助けに頼り切ることなく自らの手で運命を切り開いていく物語として描き出したことに大きな価値があると思います。実は本作のドラマ版についてはウェブ上で検索をかけ、話の展開などに触れたサイトをみたのですが、21世紀に造られたドラマ版よりも1983年の小説の方がはるかに思い切った展開を見せているという所が興味深いです。ドラマで興味を持った人はもちろん、本書をたまたま書店で見かけた人も是非読んで欲しいです(実は私は表紙の眼力にやられて手に取ってしまいました、恥ずかしながら、、、)。

7月の読書

7月です。もう今年も半分が終わりました。
7月はこんな本を読んでいます。

大澤正昭「妻と娘の唐宋時代」東方書店:読了
葛兆光(橋本昭典訳)「中国は“中国”なのか 「宅茲中国」のイメージと現実」東方書店:読了
マルク・ブロック「封建社会岩波書店:読了
ウォルター・テヴィス「クィーンズ・ギャンビット」新潮社(新潮文庫):読了

福山佑子「ダムナティオ・メモリアエ」岩波書店

古代ローマ社会では、自らの業績を誇示するモニュメントや生前の業績を刻んだ墓碑、一族の祖先たちの蝋製肖像など様々な形で過去についてのメモリア(記録、記憶といったもの)が公に残されてきました。一方で、悪しき者とされたものについては、のちの研究用語で「ダムナティオ・メモリアエ」と呼ばれることになる記憶抹消、記憶の断罪といったことが行われていました。

この対象となったものに対しては、公の場に飾られた彫像は改変されたり見えないところにうつされる、あるいは破壊されるということが行われたようです。また、碑文からはその名が削り取られ、肖像の掲示禁止、その人物の名を親族につけることの禁止など、さまざまな対応がとられたことも知られています。

では、そのような対応がなぜ取られたのか、本書では帝政前期、セウェルス朝の頃までを対象として、皇帝のメモリアへの攻撃がどのように展開されたのか、そしてどのくらい徹底されていたのかといったことを示していきます。クラウディウスの意向を組んだ人々がメモリアの破壊をおこなったカラカラ、元老院が「国家の敵」認定したことに後押しされメモリアの破壊が行われたネロ、元老院の決議でメモリアの破壊が盛り込まれたドミティアヌス、「国家の敵」認定とメモリア破壊の決議の合わせ技が発動しながら、のちにセプティミウス・セウェルスにより名誉が回復されたコンモドゥスなど、ローマ皇帝としては「悪帝」として表される人々についてのメモリア破壊が検討されています。

文献史料からは徹底的に全てのメモリアが破壊されたのかと思ってしまうところもある彼らの事例ですが、意外と徹底されていない(そこかしこに残っている事例がある)ということが示されています。また、メモリアの破壊に関して元老院の意向がどこまで重要だったのか、この刑罰が元老院による皇帝への対抗手段だったのか、そのようなことも検討されていますが、元老院が決議を行ったり主導していても、やはり皇帝の力が強い事を感じさせられます。

なお、記念碑にあふれる世界であった帝政前期ローマでは、この刑罰を受けた皇帝のものを他の皇帝のものに作り替えて利用したりした事例もあるようです。個人的には、美術作品に表された皇帝をどうやって同定するのか、そこに興味が湧きました。いえ、まあ、ぱっとみたところ、所々に個性は表れていますが、果たしてそれでこれが誰とどうやって決定づけているのがわからないものですから、つい書いてしまいました。

本書では個々の皇帝たちの事例をあつかいつつ、そこからさらに皇帝と元老院の関係や、皇帝の神格化をめぐる話題、そしてメモリアへの攻撃が罰として成立する記念物を残すことが重要視された時代から、そうしたものを残すことの重要性が低下する時代への変化を描いています。帝政後期になると公的なものおよび私的な記念物を残すことをそれほど重要としなくなったことの背景に何があるのか、価値観の転換をもたらしたものは一体何だったのか、ローマ人の心性についてさらに踏み込んだ検討を楽しみに待ちたいと思います。キリスト教が少しずつ信者を増やしていく時期にメモリアを巡る態度の変化がみられるところの根底に通じるものがありそうな気もするのですが、はてさてどうなのか。

人の記憶や顕彰、記念に関することというと、最近ではブラック・ライヴズ・マター運動において過去の偉人の像が倒されたり、それをめぐり様々な言説が語られたことは記憶に新しいところですが、何を語り継ぎ、何を残し、何を消すのか、人はそれに対しどういう基準を設け考えてきたのか、それら記憶にまつわることを考える手がかりになる一冊だと思います。

個人的に、本書のメインの内容とは関わりないところで興味深かったのが、ドミティアヌスのところで触れられていた「善帝」と「悪帝」の区別に関する話題です。本書で「悪帝」としてとりあげられているドミティアヌスなどの皇帝について、近年ではその治世について再評価が進められていますが、ドミティアヌスのばあい「五賢帝」の1人トラヤヌスとの比較がついて回るようです。昨今ではドミティアヌスの行ったことはトラヤヌスが行ったことと類似していることが指摘されています。一方で「悪帝」としてのドミティアヌス像がひろまるのはトラヤヌスの時代だったと言われています。似たような構想を抱き政策を実施した2人の皇帝のうち、片方は明君、片方は暴君として描かれるというと、隋の煬帝と唐の太宗のように見えてきます。自らの業績を際立たせる上で、似たようなことを行なった先任者を否定的に描くというのは、自分をよくみせるうえで洋の東西を問わずによく行われることなのでしょうか。

このブログも始めてからもう13年以上が経ち、色々な感想を書いてきました。ただ、読んだ本の中にはその時感想を一気に書き上げようとしたものの諸般の事情で後回しになり、気がついたらだいぶ経ってしまったものもあります。本書の感想は本当は昨年11月に感想を書こうとしたのですが、澤田先生のアレクサンドロス大王本とフランコパンのシルクロード本の感想を書くのにかなりかかり、しかも仕事が忙しくなったため書ききれずに放置してしまいました。なんとかやっと手がつけられました。そういう事情もあり、上半期ベストや下半期ベストに入れられなくなっていますが、面白いので是非読んでみてほしいです。

上半期ベスト

6月もまだそれなりに残っていますが、仕事で色々と忙しく落ち着いて本を読めるか微妙な状況です。なので、もう上半期ベストを選んでみることにしました。

林美希「唐代前期北衙禁軍研究」汲古書院
平田陽一郎「隋唐帝国形成期における軍事と外交」汲古書院
小島庸平「サラ金の歴史」中央公論新社中公新書
佐藤信弥「戦争の中国古代史」講談社講談社現代新書
アレクサンドラ・ダヴィッド=ネール/アプル・ユンテン「ケサル王物語」岩波書店岩波文庫
森山光太郎「隷王戦記1 フルースィーヤの血盟」早川書房(ハヤカワ文庫)
ビアンカ・ピッツォルノ(中山エツコ訳)「ミシンの見る夢」河出書房新社
黒田基樹「今川のおんな家長 寿桂尼平凡社
佐良土茂樹「コーチングの哲学 スポーツと美徳」青土社
岸本廣大「古代ギリシアの連邦 ポリスを超えた共同体」京都大学学術出版会
マデリン・ミラー(野沢佳織訳)「キルケ」作品社
プルタルコス(城江良和訳)「英雄伝6」京都大学学術出版会(西洋古典叢書

上半期のベストはこの12冊ということになります。今年の初めの頃は、唐の軍制について一寸色々と調べる必要があり、専門書を買って読んでみました。いわゆる府兵制=兵農一致の兵制、という理解は修正が必要なんだなと言うことがよく分かりました。一寸ここでお金使いすぎた感じもするのですが、まあそれはいいかと。

また、女性の生き方、女性の視点から見た事柄、その辺りについての本もそこそこあるかなと思います。「ミシンの見る夢」「キルケ」はどちらも面白い小説ですし、寿桂尼本はあとがきの黒田先生がある女優さんとの話からヒントを得たり、講義を受けている女子学生の感想から感じたことなど、女性史を研究したり学んだりする意義を感じる事柄が触れられています。このご時世だからこそ読んで欲しいなあと。

また、ジェンダーというと「サラ金の歴史」もそれに関する話が色々と登場します。やはり社会の中で男、女、それぞれの役割として考えられているもの、価値観を一端見直すというのは必要なんだろうなあと。その上で何をどうするか考えていければ良いのでしょう。サラ金の発展と衰退の歴史もとても面白いですし、題材的に一方的に断罪するような内容になってもおかしくないのですが、かなり抑制的なタッチでまとめていました。

一寸変わったところでは、「コーチングの哲学」というアリストテレス倫理学の考え方と、バスケットの名コーチの指導のスタイルから、良いコーチ・良いコーチングとは何かを考えていくと言う本でした。自己犠牲に酔うのは決して良いことではないなと痛感させられます。

また、「ケサル王物語」はチベットの英雄叙事詩という珍しいモノが訳されたので読んでみました。この本が出来る経緯自体が非常に興味深いものがあります。話の方は、一寸それは都合良すぎないかと突っ込みたくなったり、神の転生のはずがずいぶんと人間くさいことをするなあと言いたくなる人がいたり、実におもしろいです。

「戦争の中国古代史」は武帝の対匈奴戦争のあたりも書いてくれると良かったのになあと言うのは贅沢すぎる注文だと思いますが、これもまた読み安く刺激的な内容になっています。

古代ギリシアものからh「古代ギリシアの連邦」「プルタルコス英雄伝6」を挙げておきます。連邦国家について研究史、そこからギリシアの歴史を一寸違う視点から見て構築していこうという「古代ギリシアの連邦」をよむと、この視点でギリシアの一般向け通史を書いてみて欲しいなあと期待したくなります。そして、ようやくプルタルコス「英雄伝」が完結し、読みやすい文章で古代の英雄達の話を読めるようになりました。値段は高いと思うかもしれませんが、何度も読み込む価値がありますよ。

そして、今後が楽しみなシリーズとして「隷王戦記」シリーズが刊行され始めました。異世界戦記物というと、アルスラーン戦記とか銀河英雄伝説とかがありますが、これもまたなかなか面白いです。位置づけ的にはスターウォーズの第1作(エピソード4)、マトリックス第1作みたいな感じですが、主人公の歩みははたしてルークなのか、はたまたネオなのか、興味は尽きません。著者は世界史が結構好きなようで、これはあの人がモデルだろうなあと思いながら読むのもまた面白いでしょう。

以上、2021年上半期のベスト本紹介となりました。下半期は忙しそうですがおもしろい本が読めるといいなあと。

マデリン・ミラー(野沢佳織訳)「キルケ」作品社

ギリシア叙事詩オデュッセイア」に、キルケという魔女が登場します。オデュッセウスの部下たちに酒を飲ませて彼らを豚に変えたり、オデュッセウスには魔法が効かず、結局部下を人間に戻したことや、オデュッセウスが一年キルケのもとに滞在して一子テレゴノスをもうけたこと、帰国したいとうオデュッセウスに対し、帰還の方法をおしえたりといった話がみられます。

このほかにもギリシアの神々と英雄をめぐる物語のところどこに姿を表すキルケですが、彼女自身が何をどのように考え、関わった神々や英雄、人間とどのような関係を持ってきたのかということについては語られていることはあまりにも少ないです。そんな彼女を主人公として彼女の半生を描き、フェミニズムジェンダーにまつわることなど現代的解釈と登場人物の複雑な心理描写を盛り込みながらギリシア神話を語りなおしたのが本書です。

この物語ではキルケの誕生のあたりも書かれていますが、太陽神ヘリオスとオケアノスの娘ペルセの娘として生まれながら、その見た目や声が奇妙で母親のように美しくないこと、そして父ヘリオスのような力もないということで、やがて弟や妹からもバカにされるという境遇にあります。

そのようなこともあり人間の世界に興味を抱くキルケですが、人間の漁師グラウコスに恋をしたことがその後の大変な事態のきっかけとなります。人間グラウコスを神に変え望みが叶ったと思いきや、神となったグラウコスはキルケとは違うニンフに恋をして彼女を受け入れることはありませんでした。そのことからキルケが魔術を使ってそのニンフを怪物に変えてしまうのです(なお、この物語の随所にこの怪物にまつわる話が登場し、終盤にはキルケ自身がこの問題と対峙することになります)。これがきっかけで孤島に追放されてしまうのですが、己の魔力に目覚め、そこから自分の意志をもって自立し、やがて自らの力で道を開いていく、そんな彼女の成長の物語がギリシア神話の語り直しを通じて語られています。

また、本書では彼女以外にもギリシアの神と英雄の物語では脇役として存在する声無きものたちに自分たちのことを語る声を与えています。なぜそんな長期間夫をひたすら待ち続けていたのかわからないペネロペの思い、ミノタウロスの伝説で有名なパシパエが語ることのなかった秘密(彼女が夫ミノス王に対して「調教」しているかのような対応をしているのは、このことの影響でしょうか)など、本書をより豊かなものにしていると思います。こうした部分では、ギリシア神話において語られることの少ない、女性の苦しみや悲しみといったものが感じられる部分が多く見られました。このあたりは古代の神話に現代的解釈をいれながら語り直すことで得られる面白さでしょう。

さらに、神話の世界の神々や英雄たちについても、神話では見られない姿が描かれています。特にオデュッセウスについては苦しい旅の果てに帰り着いたものの、家族とはどうしても分かり合えないところがあったり、帰ってきてからもかつての戦友たちに何かすることはないかと尋ねても誰からも相手にされず、近隣に略奪行に出て悦に入るかのような姿も見られます。かつての知略縦横はどこへやら、そこに描かれているのは長い戦争と苦難に満ちた旅に心を蝕まれ日常に戻れなくなった哀れな男の姿で、まるでベトナム戦争の帰還兵のようにみえました。

そして、この物語に登場する神々はどこか変なところがあるように感じられるのですが、個人的に一番危険だと感じたのは女神アテナです。本書の後半、終盤に登場する神ですが、気に入った英雄に対して加護を与え英雄的な冒険や戦いへと駆り立て、彼らが消耗するとまた別のものをターゲットにする、ある決まった「英雄」以外を許容せず、そこから外れるものには厳しい対応をとる、そんなアテナの姿が描かれています。苦難の中にある帰還した後のオデュッセウスに対してもそのようなことをしているのですが、恐らくアテナはオデュッセウスの苦しみなど理解することもないでしょうし、理解できないでしょう。アテナの姿は現実社会でもある特定の振る舞いを強要してくる人の姿と重なってくるものがあります。

オデュッセウスはイアソンやヘラクレスとは異質の英雄ではありますが、その彼でさえ「英雄」的な生き方からはなかなか逃れられないのでしょうか。そんな彼の子ども2人の生き方はどうなのかをみてみると、テレマコスは既存の価値観にとらわれず、アテナの「英雄的」な生き方への誘いもあっさり断り、父であるオデュッセウスの言動にも違和感を抱く人物として描かれています。他方、キルケの子テレゴノスが選び取ったのは「英雄」的な生き方でした。このこと自体はキルケの望む生き方ではなさそうですが、彼女のほうもテレゴノスとの別れのつらさをこらえながら広い世界に彼を送り出します。神話の英雄的生き方を選んだテレゴノスと、神話の英雄的な世界から降りたテレマコスの選択、そして結末でのキルケの選択を見ていると「神話の終わり」と「歴史の始まり」、ふとそんなフレーズを思い出しました。

ギリシアの神々と英雄の物語のなかで今まで焦点が当てられなかった部分をふくらませ、語ることばをもたなかったキャラクターにも言葉を与えながら、違う角度から物語を描き出し、それを通じて一人の女性の成長替えが枯れており、非常に面白く読めました。色々な解釈や語り直しによりギリシアの神話に新たな魅力を見いだせるという事も分かってもらえる一冊だと思いますので、是非読んでほしいものです。

プルタルコス(城江良和訳)「英雄伝6」京都大学学術出版会(西洋古典叢書)

京都大学学術出版会会の西洋古典叢書からプルタルコス「英雄伝」の翻訳が出始めてから大部立ちました。途中で訳者の柳沼重剛先生がなくなられ、訳者の交替がありましたが無事6巻で完結と言うことになりました。

最終刊の6巻では、デメトリオス・ポリオルケテス(エウメネスと戦ったアンティゴノスの子)とアントニウスの伝記の組み合わせ、ディオンとブルートゥスの組み合わせの後は、単独の伝記としてアルタクセルクセス(ペルシア王)、アラトス(アカイア同盟の政治家)、ガルバとオト(ネロの後のローマ皇帝)が並べられています。

デメトリオスとアントニウスの組み合わせは、運命の変転のなか良いときもあったが最終的には破滅していくところや、どちらも贅沢や快楽に溺れ堕落しているようなところがみられるなど、悪いところで似たようなところが見受けられる構成となっています。いわば「反面教師」的な扱いとも言われるこの2人の伝記ですが、それでも時々、序盤の展開において美点となることにも触れています。例えばデメトリオスは旺盛な活動力、慈しみ深く友情に熱く仁慈と正義の資質を持っていたこと、アントニウスについては序盤に窮地にある時最高の人間となること、失墜の時に偉大な人間に最も近づくということが書かれています。

危機に見舞われた時に発揮される徳や忍耐が平時には発揮できないというところが彼らの弱さでもあり、また美点が取り上げられるのは伝記のじょばんであり後半になると弱さや欠点の方が目立つ展開になっていくのですが、そのような人物であっても、何かしら美点となりうるものがあり、己の持つ徳をいかに発揮できるか、維持できるかというところを考えさせられる展開になっているように感じました。運命の変転のただなかで、人はいかに徳を発揮していけば良いのか、そして幸運と贅沢の中で己の持つ徳をいかに損なわず保っていけば良いのか、そのようなことを考えさせられる人物2人の伝記が掲載されています。欲望をいかに抑えるか、それが結構重要なのでしょう。

そのほか、僭主や独裁者と戦ったディオンとブルートゥスの伝記とその比較、アラトス、アルタクセルクセス、ガルバ、オトといった人物の単独の伝記が掲載されています。なぜその人を選んだのか(とくにガルバとオト)、その理由を知りたいところですが、これら単独の伝記ついては何か対になるものを考えていたのか、はたまた独立した伝記を書いてそれでよしとしたのか、対にするとしたらどのような人物が挙げられるのかを考えてみるのもまた一興というところでしょうか。

プルタルコス「英雄伝」全巻を通して言えることですが、それぞれの人物の伝記を一度読んで終わりにするにはもったいなく、何度も興味の赴くままに手に取って読み返し、色々と考えてみるというのが良い楽しみ方だと思うようになりました。決して歴史を書いているわけでなく、人物を描くことに重きを置き、そこがまた歯痒さを感じる時もありますが、運命の変転にいかに向き合うか、夜更けに思索を巡らせるのもまた楽しいと思われますがどうでしょうか。

6月の読書

6月に入りました。こんな本を読んでいます。

福山佑子「ダムナティオ・メモリアエ」岩波書店:読了(再読です)
マデリン・ミラー「キルケ」作品社:読了
デイヴィッド・W.アンソニー「馬、車輪、言語(下)」筑摩書房:読了
デイヴィッド・W.アンソニー「馬、車輪、言語(上)」筑摩書房:読了
プルタルコス「英雄伝6」京都大学学術出版会(西洋古典叢書):読了

 

合田昌史「大航海時代の群像」山川出版社(世界史リブレット人)

ヨーロッパから各地への航海がおこなわれ、ヨーロッパの人々の世界の認識の拡大と、海外への進出へとむかうきっかけとなった大航海時代は、近世の始まりとして位置づけられます。一方で、大航海時代のヨーロッパからの各地への進出を中世の十字軍やレコンキスタといった中世ヨーロッパの拡大運動の流れに位置づけることも可能です。

本書では、ポルトガルの海外進出に焦点を絞り、初期の海外進出に関わった「航海王子」ことエンリケと、東回りの航路でインドまで行ったヴァスコ・ダ・ガマ、そしてポルトガル出身者ではありましたがスペインの支援のもと世界周航にでたマゼラン、この3人の業績をとりあげ、大航海時代を担った人々、そして大航海時代ポルトガル王国を描き出そうとしています。

本書では大航海時代のヨーロッパの海外進出について、経済的な面よりもむしろ十字軍運動のような中世的拡大の流れに位置づけて考えていくと言う姿勢を取ります。そして対外進出により個人、王朝・国家のステイタス向上を願う点でエンリケ、ガマ、マゼランの3人は共通する要素を持っていたと見ています。そして、そのような心性を描くにあたりマグリブ騎士修道会が鍵となると言う観点から本書は描かれています。

マグレブの地はレコンキスタを経験してきたイベリア半島の貴族にとっては武勲を挙げ、社会的上昇のチャンスを得る地であり、十字軍的な精神を発揮する場ととらえられていたようです。大西洋アフリカへの商業的進出について特権を付与され私的事業としてこれを推進したエンリケについても、彼自身は十字軍的なモロッコ方面での軍拡路線を進めることを強く望んでいたと考えられています。

そして、十字軍的な精神を盛りこむ「器」であり、海外拡大に大きな影響を与えたものとして騎士修道会があり、とくに15世紀末に海外拡大が進められ始めインド遠征が度々行われるようになると騎士修道会のメンバーが遠征隊や海外拠点の要職を占めるようになっていきます。ガマとマゼランの歩みに大きな違いが生じたのもこの騎士修道会との関わりの有無が大きかったと本書では捉えています。

本書ではエンリケ、ガマ、マゼランの活動をたどりながらポルトガルの海外拡大についてモロッコ軍拡路線の破局とも言うべきアルカサル・キビルの戦いまでを描きます。「二兎を追う者は一兎をも得ず」と言いますが、インド遠征など海外拡大と商業利益を求める活動を進め、要所を点で抑える「海上帝国」を作り上げる活動と、中世の十字軍的精神の発露ともいえるモロッコでの軍拡路線、この2つを隣国カスティーリャ、のちスペインの動向に気を遣いながら進めるというのは明らかにポルトガルの国力で対応できるレベルを超えたものであったでしょう。大航海時代の群像をとりあげながらポルトガルの儚いきらめきをコンパクトにまとめて書いた一冊という感じでしょうか。

小関隆「イギリス1960年代 ビートルズからサッチャーへ」中央公論新社(中公新書)

1960年代のイギリス、ビートルズが世界的人気を獲得し、ロンドンがファッションの流行発信地となり「スウィンギング・ロンドン」という言葉が登場、若者文化が花開いた時代でした。また、性の解放などが進み今までの社会では認められなかったものが認められる「許容する社会」として様々な規制や慣習が緩んでいった時期でもありました。

それから一転、1980年代にはマーガレット・サッチャー新自由主義のもと自己責任や国家の役割縮小、福祉の切り下げ、警察や軍の強化といったそれまでと比べて統制を強めた体制へと移行していきました。本書では、若者文化が栄え、ビートルズが大流行したた1960年代の状況について、それ以前と比べ豊かになった社会と「文化革命」、従来の価値観の揺らぎ、ニューレフトの登場と個人主義の強まり、様々な規制が緩められていく「許容する社会」の進展といったことと、そう言った状況に対する批判・反動としてモラリズムがあらわれてくること、そしてサッチャーの登場という流れを押さえながら、サッチャー登場の芽が60年代に胚胎していたことを示していきます。

経済成長を背景にそれ以前より豊かになった人々、特に労働者階級の若者が自分の欲しい服を買い、聴きたい音楽をきく、同じ労働者として世代で連帯することよりも同じ趣味を持つ同世代の友と過ごすことを選ぶようになるなど、行動様式が階級の連帯より個人の楽しみを優先する傾向が現れてくるようです。そういう経験をした人々が、サッチャーの自己責任と自己利益追求の主張に飛びつくというのはある意味わかりやすい主張ではあります。

また、「許容する社会」の発展が皮肉にもそれを批判するモラリストホワイトハウス、そしてそれを規制する側に回るサッチャーといったそれまでの社会規範のもとであれば表舞台に立てなかったであろう人々を表舞台に立たせることになる様子が本書では描かれています。ある考え方を否定する人々が、その考え方の存在ゆえに活動でき、力を伸ばすことができるという事例は他の時代や地域でも見られるかと思われます。果たしてどこまで自由を認めるのか、ルールを守る気のない者たちに対しても自由を認めるのか、読者に投げかけられた問いは非常に重いです。

本書でとくに興味を惹いたのが、モラリズムのクルセイダーことメアリ・ホワイトハウスという人物です。テレビ浄化運動を皮切りにいろいろと「許容する社会」に対して批判を繰り広げた人物ですが、著者の評は「その主張は凡庸、特筆すべきことはない」と至って辛辣です。しかしその凡庸な主張を脅威的な粘りで主張し続け、誰に何を言われても決して自分はこう思う、自分や嫌だという想いや気持ちを優先しそれを変えることのない頑迷さを維持し、いつしか彼女の主張を支持するものも増えていくというところは、主張の中身を吟味するとか論理的・理性的にものを考え発言するということをあえてしないが故の強さと、そう言った強さに対する人々の間での潜在的な憧れを感じてしまいました。そして、これは過去の話でなく現在進行形で日本および世界各地で起きていることでもあると思います。

本書における著者の姿勢は極めて明解であり、サッチャーに対して批判的なスタンスから論を展開しています。そこに引っ掛かりを覚える人もいるかもしれませんが、なかなか刺激的で面白い一冊でした。なお第2章でビートルズについてかなりのページ数を割いて、その音楽について考察していますが、音楽について詳しくない私の手に負えない内容なので、これについては深入りは避けたいと思います。ただし、一見安全そうに見えるものほど実は危険というのはビートルズについても言えることなのかなとおもいます。

ヴァレリー・ハンセン(赤根洋子訳)「西暦一〇〇〇年 グローバリゼーションの誕生」文藝春秋社

グローバル・ヒストリーと言う言葉がしきりに言われるようになった昨今、色々と世界のつながりの様子を描く本はでています。世界の各地域がつながっていくプロセスを扱うというと、多くの場合は大航海時代以降であったり、あるいはモンゴル帝国の時代であったりするところかと思われます。

本書はそのような世界各地域のつながりが西暦1000年頃に既に現れ始めていたという観点から、世界各地の歴史の状況について語っていくスタイルです。そういった本にしては珍しいなと思ったのはヨーロッパ、特に西ヨーロッパに関して単独で章立てが為されていないという所です。

大抵、世界史の本で世界がつながっていくというと、ヨーロッパ世界の成長と発展、そしてここでいうヨーロッパは西ヨーロッパ諸国のことであるという事が多いかとおもわれます。たいていの場合、何故西ヨーロッパ諸国が世界の中心になったのかというところに叙述の焦点が置かれているのかと思わされる本をみかけることはそれなりにあります。

しかし、本書では西暦1000年前後に活発な活動、様々な地域への移動を行っていた集団を取り上げるという感じで章立てが為されているように感じました。この時期においては西ヨーロッパはまだまだ不安定な時代であり、外部集団の脅威にさらされている時代です。そんな時代に、他の世界において活発な活動を見せる集団がおり、それを取り上げています。

北欧からアメリカ大陸やグリーンランドへ新天地を求め、さらにロシアにむかう者も現れたノルマン人、南北アメリカで交易を行っていた先住民、アフリカの金交易に関わったり、トルコ系の軍人奴隷の売買に関わるムスリム商人、中央ユーラシアを疾駆し帝国を築く騎馬遊牧民戦士、海上交易に従事するムスリムや中国人の商人たち、こういった世界各地を動き回る人々の存在が世界各地を結果として繋いで行くことになる様子が描かれています。

また、こういった人々の活動と並んで、彼らの活動に関連した場所で起きた政治や社会経済、文化の動向も触れられています。その中にはアジアで展開された香料交易と日本に関する話題も登場します。また、扱われている内容についてウラジーミルの改宗に至るまでの話やサーマーン朝、ガズナ朝契丹といった国々の話など、個人的にはあまり詳しく見る機会が無い所だったので、それに関する記述が結構見られたのは嬉しいです。

世界街路色と結びつき始め、富の流れが行き着く先として中国が栄えていた時代、グローバル化が少しずつ進み始めた時代について読み安くまとまっていると思います。このような大きな枠組みで世界の歴史を描く本は、一度ざっと読んでから、細かいところを色々と調べたり突っ込んだりしていくと、勉強になると思いますよ。

 

南川高志・井上文則(編)「生き方と感情の歴史学 古代ギリシア・ローマ世界の深層を求めて」山川出版社

(4月に一度読み終えましたが、その時点では忙しさもあり感想書くのはやめておこうと思っていました。しかし時間が経ち、感想を書こうかなという気持ちになってきたので、5月に改めて読み直したうえで書いています)
京都大学で長期にわたり教鞭をとってきた南川先生とそこで学んだ人たちの手による論文集が刊行されました。昨今流行りの「感情史」について、古代ギリシア・ローマ史研究の分野から何を論じることが可能なのか。社会のあり方、時代状況により規定され、規範も設けられる「生き方」について、社会の生活と行動規範を明らかにしながらせまるパートと、個別の行動を分析しながら「生き方」の原理にせまるパートからなっています。

昨今、研究の潮流として話題になっている「感情史」については日本語に訳された本が出ていたり、雑誌で特集が組まれるなどしていますが、日本での紹介はもっぱら近現代史に重点が置かれています。本書ではそうした感情史研究の流れについて簡潔に序文でふれ、感情を歴史を動かす要因してとらえ、ある感情の表れが社会に広まり、そして社会を変えていくという立場を取ることや、感情史研究において「感情」は「個人」を重視するなどの指摘がみられます。

そのうえで、あえて厳密な統一的定義をだすのでなく、論者それぞれに「感情」の定義的なものは委ねながら、それぞれに色々なテーマで論じていきます。このあたりは、南川先生のもとで学ばれた人たちの幅の広さが窺えます。南川先生自身は古代ローマ史の研究者ですが、寄稿した研究者の扱う分野を見ると、ケルト人と痛み、ペルシア王に対する宮廷儀礼ギリシア人といった、いわゆる「西洋古代史」だとあまり扱われないようなところもあれば、古典期アテナイヘレニズム世界、そしてローマもあつかわれますし、ローマでも共和政や帝政に関係するところもあればキリスト教に関するものもあります。全部通読するもよし、興味のあるところをつまみ食いしながら読むもよしといったところでしょうか。

内容を全て挙げるというのはこれから読もうという人の興味を削いでしまうかもしれないので、いくつか取り上げる程度にします。例えば、ヘレニズム世界の「国際人」について取り上げた第1部4章では、外部とのパイプを色々と持ち、それを使いながら自国に利益をもたらす人をそのようにとらえ、彼らが聴衆の感情に訴えかけそれを利用している様子が伺えます。ギリシア人全体の利益を重視すること、約束を遵守する誠実さや涜神行為を行わない敬虔さを評価する、こういった価値観が演説からは見て取れることや、演説を通じ聴衆の感情を利用し共感を得ようとしていることが示されていきます。そして、こうした「国際人」の演説が各地で行われることを通じ、「感情の共同体」としてのヘレニズム世界の一体性にも影響を与えるものであったということが明らかにされていきます。

また、第2部第2章ではいきなり釘を至るところに刺された女性像というインパクトの大きい話題から話を始め、呪詛人形や鉛の呪詛板、石に刻んだ奉納物、供犠の肉と煙、彫像など様々なものに思いを込めて神に働きかけるギリシア人たちの姿が描き出されています。死すべきものとして神と人の間に厳然たる区別があるなかで、奉納を通じて神とコミュニケーションを取る、それがギリシア人の信仰といったところでしょうか。また第2部第6章では古代ローマで幽霊話がそれほど盛んではないのはなぜかというところから、死後の魂の存続についてどう考えていたのか、その一方で死後の名声にローマ人が強くこだわったのは何故かを考えていきます。

そのほかコラムとして短い文章が2本掲載されています。出生届や戸籍がないアテナイで市民であることを示すにあたっては、社会的承認や人々の記憶に頼っているところから話が始まり、「市民はどうあるべきか」「市民として相応しくないことは何か」といったことについての認識の蓄積と共有、生き方の踏襲を通じて市民としての身分保障を行っていたらしいことがまとめられています。

なお、生き方や感情といったものを考えるにあたって、演説や法廷弁論、政治弁論といった公の場で多くの徴収を相手に行われたものが本書で史料として多く用いられています。当時の社会や時代に規定された文言ではありますが、それがかえって当時の価値観を映し出す鏡のような役割を果たすことになったというところでしょうか。

古代人たちの言動や行動について、なぜその行動に対して恥と感じるのか、何に対し関心を払い、何を恐れたのか、さまざまな題材から考えていこうとした本書ですが、あえて註を付けないという形を取っています。学術論文というと、非常に多くの中がつけられ、それによって何をもとにしてその文章を書き論を組み立てたのかがわかるようになっています。一方で膨大な註の存在は、ある分野について大まかなことは知っている、概説書は読んだ上でもう少し硬いものに挑戦したいという一般読者にとっては意外と辛いようです。より難しいものへのステップアップにこの本が役に立つことを願いたいと思います。この感想では僅かな部分を取り上げただけですが、色々と興味深い内容があるのでぜひ読んでみてほしいと思います。

そういった話とはすこしずれるのですが、第1部7章の主要登場人物であるナジアンゼンについて「要するに働きたくなかった」「学生気質の抜けきらない男」と言われると、返す言葉もございませんというしかないのですが、かれにシンパシーを感じてしまうのは私だけでしょうか。

 

5月の読書

5月になりました。このような本を読んでいます。バーンズの「イングランドイングランド」についていは、かなり昔に感想をここのブログで書いているので、わざわざ感想を改めて書くことはしませんが、是非読んでみて。

合田昌史「大航海時代の群像」山川出版社(世界史リブレット人):読了
河村彩「ロシア構成主義」共和国:読了
小関隆「イギリス1960年代」中央公論新社中公新書):読了
ジュリアン・バーンズイングランドイングランド東京創元社(創元ライブラリ):読了(と言うか再読です)
ヴァレリー・ハンセン(赤根洋子訳)「西暦一〇〇〇年 グローバリゼーションの誕生」文藝春秋社:読了
中西朋「NHK「勝敗を越えた夏2020~ドキュメント日本高校ダンス部選手権~」高校ダンス部のチームビルディング」星海社星海社新書):読了
図師宣忠「エーコ『バラの名前』」慶應義塾大学出版会:読了
南川高志・井上文則(編)「生き方と感情の歴史学山川出版社:(再読)読了

岸本廣大「古代ギリシアの連邦 ポリスを超えた共同体」京都大学学術出版会

古代ギリシアというとポリス、というイメージが政治単位については非常に強力です。しかし連邦のような組織も作られ、アカイア連邦、アイトリア連邦、ボイオティア連邦などギリシアの国際情勢に多大な影響を与えたものもあります。本書ではそういった連邦の構造について詳しく論ずるというわけではなく、ギリシア政治史においてエトノスからポリス、あるいは連邦へという発展段階論的なとらえかたではなく、古代ギリシアの共同体のありかたについて、重層的な共同体モデルというものを想定し、エトノス、ポリス、連邦が並立している状況にあったと言う捉え方を提示していきます。

第1部では古代ギリシアの連邦について、いくつかの点にしぼりながら分析していきます。ポリスと連邦の関係についてボイオティアの事例を参考に加盟ポリスの独立を連邦が侵害せざるをえない状況が発生することがあり、その状況を責め立てる手段として「アウトノミア」という言葉が使われていたということが明らかにされたり、市民権についてアイトリアの事例を調べて積極的に付与して勢力拡大に努めたり、付与に制限をかけることも状況によってあることを示したり、アカイアの事例から連邦を構成する共同体がポリスだけでなくエトノスへの配慮が公職の配分から見られることを示していきます。また、連邦加盟ポリスが内部あるいは外部でトラブルに見舞われた場合、紛争解決に際して連邦がどのように関わっていくのか、国際的な慣行を活用しつつ、状況により関わり方に強弱を付けていること、加盟ポリスにとってはトラブル解消のツールの一つが連邦であり、連邦が加盟ポリスの国際的慣習を利用しての交流を促進する役割を果たしていたことも示されています。

また、ローマの支配下に入った時代の連邦についても、政治的独立を失った連邦がどのように変わっていくのか、その役割はどうなったのかという所についても分析を加え、ギリシア人にとって連邦とはどういうものなのかと言うことを考えていきます。かつての制度をできるだけ維持しつつ、ローマの支配に適応し、過去の連邦を「伝統」として認識し、それとのつながりを名誉につながるとして肯定的に理解する、そしてローマもまた重層的な共同体モデルに組み込みうるものとして扱っていきます。ローマによる帝国支配を支えるものとして各地のローカルエリート層がありますが、帝国支配に協力するローカルエリート層が名誉を得る機会を増やすことで、ギリシアにおけるエリート層の成長、人材の育成と確保につながるということから、名誉獲得の機会となる儀礼的、宗教的活動に重きを置く当時の連邦はかなり重要なものとなっていたようです。

そして、古代ギリシアの連邦についてアメリカ合衆国成立期の憲法制定をめぐる言説で古代ギリシアの連邦がどのように扱われたのかをたどりながら、ギリシアの連邦が連邦国家になぞらえて理解されるようになったことを書き、そこからさらにEUの研究にも古代ギリシアの連邦についての研究を利用することが可能であると考えていきます。近代の連邦国家と結びつけて古代ギリシアの連邦を論じる認識が定着したのが連邦国家アメリカの成立過程と結びつくならば、そこから分離した形で古代ギリシアの連邦を捕らえ直すことでまた違う国家、共同体のあり方を理解する手がかりともなり得るというところでしょうか。

第1部では特定の連邦にしぼって事例を分析しているので、他の連邦ではそれぞれの事例についてどういうことが分かるのか、そこの所が気になりました。また、タイトルを見ると、古代ギリシアの連邦について、その構造や来歴などを詳しく分析した本と思うかもしれませんが、そういう方向の研究ではありません。それはまた別の書籍が必要になると思います。しかし、連邦、ポリス、エトノスが並立し重層的な共同体の構造をつくりあげているというモデルからギリシアの歴史をみていこうという、いままでのポリスの歴史を中心に据えたギリシアの歴史とはちがう歴史像を描いていこうという意欲が強く表れた著作です。は古代ギリシアの歴史を違う視点から捉え直そうという、作業の始まりにあたる位置づけになる本だと思うので、ここからさらに掘り下げていって得られた成果をいつか読みたいものです。