まずはこの辺は読んでみよう

しがない読書感想ブログです。teacupが終了したため移転することと相成りました。

マデリン・ミラー(野沢佳織訳)「キルケ」作品社

ギリシア叙事詩オデュッセイア」に、キルケという魔女が登場します。オデュッセウスの部下たちに酒を飲ませて彼らを豚に変えたり、オデュッセウスには魔法が効かず、結局部下を人間に戻したことや、オデュッセウスが一年キルケのもとに滞在して一子テレゴノスをもうけたこと、帰国したいとうオデュッセウスに対し、帰還の方法をおしえたりといった話がみられます。

このほかにもギリシアの神々と英雄をめぐる物語のところどこに姿を表すキルケですが、彼女自身が何をどのように考え、関わった神々や英雄、人間とどのような関係を持ってきたのかということについては語られていることはあまりにも少ないです。そんな彼女を主人公として彼女の半生を描き、フェミニズムジェンダーにまつわることなど現代的解釈と登場人物の複雑な心理描写を盛り込みながらギリシア神話を語りなおしたのが本書です。

この物語ではキルケの誕生のあたりも書かれていますが、太陽神ヘリオスとオケアノスの娘ペルセの娘として生まれながら、その見た目や声が奇妙で母親のように美しくないこと、そして父ヘリオスのような力もないということで、やがて弟や妹からもバカにされるという境遇にあります。

そのようなこともあり人間の世界に興味を抱くキルケですが、人間の漁師グラウコスに恋をしたことがその後の大変な事態のきっかけとなります。人間グラウコスを神に変え望みが叶ったと思いきや、神となったグラウコスはキルケとは違うニンフに恋をして彼女を受け入れることはありませんでした。そのことからキルケが魔術を使ってそのニンフを怪物に変えてしまうのです(なお、この物語の随所にこの怪物にまつわる話が登場し、終盤にはキルケ自身がこの問題と対峙することになります)。これがきっかけで孤島に追放されてしまうのですが、己の魔力に目覚め、そこから自分の意志をもって自立し、やがて自らの力で道を開いていく、そんな彼女の成長の物語がギリシア神話の語り直しを通じて語られています。

また、本書では彼女以外にもギリシアの神と英雄の物語では脇役として存在する声無きものたちに自分たちのことを語る声を与えています。なぜそんな長期間夫をひたすら待ち続けていたのかわからないペネロペの思い、ミノタウロスの伝説で有名なパシパエが語ることのなかった秘密(彼女が夫ミノス王に対して「調教」しているかのような対応をしているのは、このことの影響でしょうか)など、本書をより豊かなものにしていると思います。こうした部分では、ギリシア神話において語られることの少ない、女性の苦しみや悲しみといったものが感じられる部分が多く見られました。このあたりは古代の神話に現代的解釈をいれながら語り直すことで得られる面白さでしょう。

さらに、神話の世界の神々や英雄たちについても、神話では見られない姿が描かれています。特にオデュッセウスについては苦しい旅の果てに帰り着いたものの、家族とはどうしても分かり合えないところがあったり、帰ってきてからもかつての戦友たちに何かすることはないかと尋ねても誰からも相手にされず、近隣に略奪行に出て悦に入るかのような姿も見られます。かつての知略縦横はどこへやら、そこに描かれているのは長い戦争と苦難に満ちた旅に心を蝕まれ日常に戻れなくなった哀れな男の姿で、まるでベトナム戦争の帰還兵のようにみえました。

そして、この物語に登場する神々はどこか変なところがあるように感じられるのですが、個人的に一番危険だと感じたのは女神アテナです。本書の後半、終盤に登場する神ですが、気に入った英雄に対して加護を与え英雄的な冒険や戦いへと駆り立て、彼らが消耗するとまた別のものをターゲットにする、ある決まった「英雄」以外を許容せず、そこから外れるものには厳しい対応をとる、そんなアテナの姿が描かれています。苦難の中にある帰還した後のオデュッセウスに対してもそのようなことをしているのですが、恐らくアテナはオデュッセウスの苦しみなど理解することもないでしょうし、理解できないでしょう。アテナの姿は現実社会でもある特定の振る舞いを強要してくる人の姿と重なってくるものがあります。

オデュッセウスはイアソンやヘラクレスとは異質の英雄ではありますが、その彼でさえ「英雄」的な生き方からはなかなか逃れられないのでしょうか。そんな彼の子ども2人の生き方はどうなのかをみてみると、テレマコスは既存の価値観にとらわれず、アテナの「英雄的」な生き方への誘いもあっさり断り、父であるオデュッセウスの言動にも違和感を抱く人物として描かれています。他方、キルケの子テレゴノスが選び取ったのは「英雄」的な生き方でした。このこと自体はキルケの望む生き方ではなさそうですが、彼女のほうもテレゴノスとの別れのつらさをこらえながら広い世界に彼を送り出します。神話の英雄的生き方を選んだテレゴノスと、神話の英雄的な世界から降りたテレマコスの選択、そして結末でのキルケの選択を見ていると「神話の終わり」と「歴史の始まり」、ふとそんなフレーズを思い出しました。

ギリシアの神々と英雄の物語のなかで今まで焦点が当てられなかった部分をふくらませ、語ることばをもたなかったキャラクターにも言葉を与えながら、違う角度から物語を描き出し、それを通じて一人の女性の成長替えが枯れており、非常に面白く読めました。色々な解釈や語り直しによりギリシアの神話に新たな魅力を見いだせるという事も分かってもらえる一冊だと思いますので、是非読んでほしいものです。