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アレクサンドラ・ダヴィッド=ネール/アプル・ユンテン(富樫瓔子訳)「ケサル王物語」岩波書店(岩波文庫)

ある時、チベットにて信心深い母親と現世の富貴に強い関心を抱く娘がいました。母親が突然インドへ巡礼の旅に出てしまい、仏陀の教えに従い幸せな生涯を送り、娘の方は度重なる不幸に見舞われる中、仏陀の教えに対し強い憎しみの念を抱きながら死んでいきます。しかしその際に娘の方は3人の息子とともに仏敵として生まれ変わることを願い、それを阻止線とする試みも失敗したことから母親はホルと言う国の3部族のそれぞれの王として、息子3人は北と西、南の王として生まれ変わります。

これら6人は非常に強力な仏敵であり、仏陀の教えとその信者を守るためにはなんとしても討伐せねばならないため、神界から人間界にこれら仏敵と戦う英雄を送り込むと言う計画を立てます。そして神界で白羽の矢が立ったのがトェパ・ガワという英雄であり、彼が人間界ではリン国のケサル王の名で王となり、ホル国の3人の王、北と西、南にいる王、計6人の仏敵を討伐するための戦いを展開することになるのです。

本書はケサル王が仏敵たちを打ち滅ぼすという使命を果たす戦いを詠った箇所と、それ以外の戦いに関する部分からタジク征服を詠った箇所、そしてケサル王たちが人間界での使命を果たし神界へと帰っていくまでの内容を翻訳したものです。神や悪鬼が人間界に生まれ変わり、彼らが織りなす奇想天外な物語で、ケサルの超人的活躍を楽しむ物語であるとはおもうのですが、それだけがこの話の面白さを支えているわけではないでしょう。神々の振る舞いが実に人間的であり、時に面白おかしく描かれています。

例えば、ケサル王として生まれ変わるまでの前日譚で、人間界行きを渋る神が提示した要望にことごとく応えていくところは、なんだか駄々っ子のワガママのようです。そして転生にあたり母親となる龍女を地上に送り出すためにパドマサバヴァがやったことの酷さ(龍達の間に疫病を流行らせるため毒を水に流す)は、チベットで第2のブッダとして崇められている人がこれをやっていいのかと思わず突っ込んでしまいそうになります。

本編でも、ケサル王はさまざまなものに姿を変えることができ、神界から雷を落とすなどの能力を駆使し超人的活躍を見せた後、しばしば長期の隠遁生活に入ると宣言して引きこもり、結局周囲の働きかけにより戦い始める場面がみられます。またある時は仏敵を討った後そこの国で術にかけられて長逗留してしまう間に自国が敵に攻められ大変なことになる(兄が討たれ、国は傀儡政権のもと圧政が敷かれ、ケサルの父母は苦しい生活を送らされている)というところに強大な力と詰めの甘さという落差を感じさせられます。単に強さを誇示するだけの英雄とは一味違うところが魅力の一つなのかなとも思いました。

そのほか、ケサルが術にかかり他国に長逗留している間に隣国に攻め込まれ、幾度どなく隣国の王の誘いを拒んできたものの結局彼との間に子をなし、さらにケサルの帰還と生存がわかってからはかえってケサルと敵対するようなことをやろうとする王妃も出てきます。こちらは彼女の置かれた状況からそうなるのは仕方ないところだと思いますし、結局ケサルの元に戻ってくるのですが、不貞と言うのはまたちょっと違うかなと感じましたがどうでしょうか。ケサルも戦いが終わるとすぐ隠遁してしまったり、帰ってこなかったりと彼女への接し方にはちょっとそれはどうなのかと思うところが見受けられますし。

そして、英雄叙事詩のような話には道化役も欠かせないと思いますが、それにあたる人物もいます。ケサルの叔父であり、馬頭観音の生まれ変わりでありながら欲の皮がつっぱっており、それゆえに出し抜かれたり大変な目に遭う人物が出てきます。神界から生まれ変わりとして送り込まれた割には、ケサルを助けるというよりむしろ自分の利益や欲望を最優先にし、ケサルを苦しめたり困らせる場面が度々出てくるのですが、彼の失敗談は朗唱を聞く人々に笑いを提供してくれる効果がありそうです。

解説を読むとさらによくわかることがいろいろとあります。本書の底本となったものは20世紀前半にチベット語り部が朗唱したものを筆録したものでフランス語からの翻訳となっています。最近の海外文学では原書からの翻訳があたりまえであり、他の言語に訳されたものからの重訳は珍しいなか、本書に関してあえてそれを選んだ理由も書かれています。本書の著者アレクサンドラとユンテンの2人は毎回3時間、1日2回、6週間にわたる朗唱を書き残し、繰り返しなどを削りまとめ上げたものが本書の底本で、ケサルの誕生から人間界を去るまでを一貫してまとめているということが大きな理由といえるようです。なお、著者の1人アレクサンドラはチベットに入った女性探検家として知られ、『パリジェンヌのラサ旅行』(東洋文庫)という著作もあります。

本書は非常に貴重なチベット文学の本ですし、物語も人物紹介が丁寧なのでそれを時々参照しつつ読めば大丈夫、話の展開も奇想天外なところはありますが読みやすいと思います。翻訳が出たこの機会にぜひ読んでみて欲しい本です。