まずはこの辺は読んでみよう

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小関隆「イギリス1960年代 ビートルズからサッチャーへ」中央公論新社(中公新書)

1960年代のイギリス、ビートルズが世界的人気を獲得し、ロンドンがファッションの流行発信地となり「スウィンギング・ロンドン」という言葉が登場、若者文化が花開いた時代でした。また、性の解放などが進み今までの社会では認められなかったものが認められる「許容する社会」として様々な規制や慣習が緩んでいった時期でもありました。

それから一転、1980年代にはマーガレット・サッチャー新自由主義のもと自己責任や国家の役割縮小、福祉の切り下げ、警察や軍の強化といったそれまでと比べて統制を強めた体制へと移行していきました。本書では、若者文化が栄え、ビートルズが大流行したた1960年代の状況について、それ以前と比べ豊かになった社会と「文化革命」、従来の価値観の揺らぎ、ニューレフトの登場と個人主義の強まり、様々な規制が緩められていく「許容する社会」の進展といったことと、そう言った状況に対する批判・反動としてモラリズムがあらわれてくること、そしてサッチャーの登場という流れを押さえながら、サッチャー登場の芽が60年代に胚胎していたことを示していきます。

経済成長を背景にそれ以前より豊かになった人々、特に労働者階級の若者が自分の欲しい服を買い、聴きたい音楽をきく、同じ労働者として世代で連帯することよりも同じ趣味を持つ同世代の友と過ごすことを選ぶようになるなど、行動様式が階級の連帯より個人の楽しみを優先する傾向が現れてくるようです。そういう経験をした人々が、サッチャーの自己責任と自己利益追求の主張に飛びつくというのはある意味わかりやすい主張ではあります。

また、「許容する社会」の発展が皮肉にもそれを批判するモラリストホワイトハウス、そしてそれを規制する側に回るサッチャーといったそれまでの社会規範のもとであれば表舞台に立てなかったであろう人々を表舞台に立たせることになる様子が本書では描かれています。ある考え方を否定する人々が、その考え方の存在ゆえに活動でき、力を伸ばすことができるという事例は他の時代や地域でも見られるかと思われます。果たしてどこまで自由を認めるのか、ルールを守る気のない者たちに対しても自由を認めるのか、読者に投げかけられた問いは非常に重いです。

本書でとくに興味を惹いたのが、モラリズムのクルセイダーことメアリ・ホワイトハウスという人物です。テレビ浄化運動を皮切りにいろいろと「許容する社会」に対して批判を繰り広げた人物ですが、著者の評は「その主張は凡庸、特筆すべきことはない」と至って辛辣です。しかしその凡庸な主張を脅威的な粘りで主張し続け、誰に何を言われても決して自分はこう思う、自分や嫌だという想いや気持ちを優先しそれを変えることのない頑迷さを維持し、いつしか彼女の主張を支持するものも増えていくというところは、主張の中身を吟味するとか論理的・理性的にものを考え発言するということをあえてしないが故の強さと、そう言った強さに対する人々の間での潜在的な憧れを感じてしまいました。そして、これは過去の話でなく現在進行形で日本および世界各地で起きていることでもあると思います。

本書における著者の姿勢は極めて明解であり、サッチャーに対して批判的なスタンスから論を展開しています。そこに引っ掛かりを覚える人もいるかもしれませんが、なかなか刺激的で面白い一冊でした。なお第2章でビートルズについてかなりのページ数を割いて、その音楽について考察していますが、音楽について詳しくない私の手に負えない内容なので、これについては深入りは避けたいと思います。ただし、一見安全そうに見えるものほど実は危険というのはビートルズについても言えることなのかなとおもいます。