まずはこの辺は読んでみよう

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井上浩一「歴史学の慰め アンナ・コムネナの生涯と作品」白水社

昨年末より、ビザンツ帝国関連の書籍が次々と刊行されています。その中には私も読んで感想を書いたアレクシオス1世の伝記「アレクシアス」も含まれます。本書は、その「アレクシアス」を書いた歴史家にしてビザンツ皇女アンナ・コムネナの生涯と、彼女の作品についての分析部分の2部構成となっています。

前半の生涯をあつかった部分では、アンナの誕生から成長、そして失敗に終わった帝位簒奪計画とその後の修道院生活、父帝の偉大な業績を後世に伝える「アレクシアス」執筆に力を入れた晩年までをまとめています。アンナの生涯をまとめつつ、当時のビザンツ帝国の社会や政治、文化についての解説ももりこまれています資料批判をしっかりと行いつつ、随所に状況的に可能性が高い著者なりの推測も交え(最初の結婚相手の死と祖母の修道院入りの顛末)、読みやすくまとまっています。

後半の「アレクシアス」を検討する部分ではビザンツ帝国の歴史書のなかで「アレクシアス」が様々な分野を越境して書かれた独自の地位を占める本であること、戦いの日々を綴りながらそこに「平和」への思いが込められているといったことが示されています。さらに「原因」の探究と「運命」「摂理」による説明について「アレクシアス」ではどういう対応が取られたのかも描かれ、最終章では「アレクシアス」にみられる年代の誤りの問題や、史料の取り扱いや読解力、分析力についての検討が行われ、そのうえで通常の歴史書とは異なる「アレクシアス」という著作についての評価も行われます。第2部は歴史学的な手続きの一端が窺える内容であるとともに、著者がアンナ・コムネナが好きであること、「アレクシアス」を高く評価していることも伝わってきます。

夫を帝位につけようという野心を挫かれ、一応和解はしたものの望まぬ形で修道院へ入ることになったアンナにとり、父帝の生涯を振り返りつつその業績を伝える著作を書くことがどのような意味を持ったのか。本書で描かれた彼女の生涯や著作の分析からは、己の不遇と父の栄光を書き残す作業を通じ、そのことが考えや気持ちの整理につながり、「摂理」として自分の置かれた現実をそれなりに受け入れられるようになっていった感じがします。後ろ向きな感じがすることではありますが、個人のレベルで歴史書を書きながら過去を振り返ることが先の未来を生きるうえでかなり役に立つということもあるのかなという印象を抱きました。「歴史学の慰め」というタイトルを見て、初めはなんだろうかと思っていたのですが、アンナ・コムネナという一個人の救済の物語のようにも感じる一冊でした。歴史学の効用というとどんなことがあるのかと思いますが、このような効用があるというのも一つの現れなのだと思います。

また、「アレクシアス」の分析を通じて、史料批判や史料の訳出、叙述についての解説になる内容もふくまれており、ビザンツ史が専門でない人であっても歴史学に関心のある人は読んでみると色々と参考になると思います。この夏にぜひ読んで見て欲しい一冊です。