まずはこの辺は読んでみよう

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小林功「生まれくる文明と対峙すること 7世紀地中海世界の新たな歴史像」ミネルヴァ書房

7世紀、「アラブの大征服」により古代から続いてきたササン朝は滅亡、ビザンツ帝国はその領域を縮小させました。アラブ国家の登場により、オリエント世界は古代から新しい段階に入りました。では、生き残ったビザンツ帝国がこの新たに生まれてきた国家とどのように向き合うことになったのか。

本書において描かれるアラブ国家とビザンツの関係の変遷はだいたい以下のようなところでしょうか。アラビア半島から現れたアラブ国家に対するビザンツ帝国の認識について、辺境の略奪と同種とみなしていたらしいこと、アラブ勢力は一時的なものと思っていた節があります。その認識が対応の遅れを招いた面もありますが、一時的なものという認識のもと、彼らを取り込もうとする融和策やこれを討つ強硬策で対応しようとしたようです。

しかし強硬策は明確な成果を挙げることなく、またアラブ国家が一時的な存在でないことが認識され始め、それを明確に意識したのが654年のコンスタンティノープル包囲でした。そしてアラブ国家に対する認識を改めたビザンツ帝国は、国内外に苦難を抱えつつコンスタンス2世のもと、小アジアの都市防備強化や周辺地域の勢力圏構築などこれと対峙するための体制づくりに着手します。さらに自ら西へ渡ったコンスタンス2世はシチリアを拠点に北アフリカ情勢への対処と艦隊の建設に乗り出します。彼は非業の死を遂げることになりますが、彼が導入した諸々の制度や、彼のもとで整備されて行った艦隊が670年代のビザンツ攻勢を支えることになったということが示されています。

さらに、7世紀を通じてビザンツ帝国が「神の恩寵を受けた皇帝が支配するキリスト教徒の共同体」としての自己認識を改めて強化するとともに、アラブ国家もまたビザンツを滅ぼすことができずこれと対峙し続けるなかで「イスラム文明」として発展していったということも示されていきます。

このような内容を、先行学説の整理や史料の検討を通じて描き出していきます。通説の修正を迫る内容もみられ、本書の内容上最も大きな意味を持つものとしては、アラブ国家によるコンスタンティノープル包囲の始まりや年代に関するところでしょう。通常、世界史の用語などでイスラム勢力による最初のコンスタンティノープル包囲というと674年から678年と習います。しかし本書ではこれ以前にも654年に初めてアラブ国家による包囲が行われたこと、さらに674年からという包囲の年代が実は667年から669年のことであることを示しています。この辺りの説の当否について判断を下すのは、専門外の私の能力では難しいことではありますが、史料を読み込みながら、新たな説が提示されるプロセスというのは面白いものです。

そして、こうしたコンスタンティノープル包囲やアラブの攻勢を乗り切ったということが、ビザンツ帝国アイデンティティ形成に極めて重大な影響を与えたことも示されています。アラブ国家に対する敗北は皇帝の教会政策の誤り、神の怒りの現れのごとくとられ「キリスト教世界の守護者」としてのビザンツ皇帝のイメージには深い傷がついたとされます。そして皇帝支配の正統性に疑念が示される状態がコンスタンス2世の時代まで続きますが、654年の包囲を乗り切ったことで神の恩寵がコンスタンス2世にあると捉えられるようになります。そして皇帝を批判する勢力も衰え、その後もアラブの攻勢、コンスタンティノープル包囲を退けたことが「神に守られた帝国」「神の恩寵をうけた皇帝が支配するキリスト教徒共同体」としての帝国という認識を形作るうえで非常に大きな影響を与えたということになるようです。

支配の正統性に疑念が示され、対外的にも脅威を抱えるなかで脅威に対応するための体制構築に着手し、それに伴う負担増などに不満を持つ有力者たちの「宮廷クーデタ」により非業の死をとげたコンスタンス2世の生涯をたどりつつ、強大な力を持つ新たな隣人に対峙しながら、新たな姿をとって現れたビザンツ帝国と、ビザンツに隣接しながら様々な要素を取り込みつつ自らの姿を規定していった「イスラム文明」が出現した7世紀地中海の歴史の動きが伝わってくる一冊でした。本書は本格的な研究所ではありますが、文章も結構読みやすい方だと思います。

一つの集団が台頭したとき、それにどのように対峙するのか。「新しい文明」の登場なのか、泡沫の夢のようなものなのか、その時代を生きている人々にその判断は難しいといいますか、ほぼ不可能なところかと思います。結果がどうなるかはわからないとしても、その時、その場でに何ができるのかを考え、様々な手をうっていく、その積み重ねが歴史を作っていくこともあるのかなと思います。アラブ国家の勃興と「イスラム文明」の登場に向き合ったビザンツ帝国の歴史を見ながら、目まぐるしく変化する国際情勢や国内情勢の中で生きる現代の我々もいろいろと考えてみるのもまた一興かと思いますがどうでしょうか。