まずはこの辺は読んでみよう

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中谷功治「テマ反乱とビザンツ帝国」大阪大学出版会

7世紀から9世紀のビザンツ帝国の歴史について「暗黒時代」と言われることがあります。史料の残存状況が極めて悪く、イスラムとの戦いから皇帝専制の中央 集権的な帝国がはっきりと現れるまでの時期について、限られた史料をもとに帝国の姿を描き出さなくてはならないということで、研究もかなり難しい時代のよ うです。

しかし史料は少なくとも、帝国が新たな姿をとって現れる非常に重要な時期であり、特にビザンツ帝国を支える仕組みであったテマ制が作り上げられていく時期 でもあります。古代のローマ帝国とは違う体制が作られている過程について、極めて魅力的な仮説を提示してるのが本書です。本書では、ビザンツ帝国の政治体 制について、7世紀後半から9世紀にかけてたびたび発生したテマ反乱を分析し、それを通じて中央政府のあり方を見ていこうとします。

本書における仮説は、以下のようなものです。まず、随所で繰り返される仮説として、8世紀のビザンツ帝国は小アジアのテマ軍団により支えられた政権であっ たというものです。イスラムとのコンスタンティノープル攻防戦を戦い抜き勝利したレオン3世は小アジアのテマ軍団の軍事力を背景に皇帝となった人物であ り、彼以降の皇帝たちは小アジアのテマ軍団に支えられるようになったということが主張されています。

イスラムの脅威にさらされる中、テマ軍団の果たす役割が高くなり、中央の元老院や官僚ではなく軍団の支持を背景に政権を樹立したのがレオン3世、コンスタ ンティノス5世といった皇帝たちだったということがたびたび述べられていきます。そしてテマ軍団の存在が重要であったことは、官職リストにおいてテマの軍 人が優位に立つところにも示されているようです。

やがて、対外情勢が以前と比べて安定に向かう中、8世紀後半のエイレネ政権のころから中央政府によるテマの統制が強化され始め、首都勢力による政治的陰謀 も8世紀末に増加するところや、バルカン半島において本格的な再征服が進められていくことから政権の性格は徐々に変化していった様子が伺えるとします。テ マに対する統制強化にはテマ軍団の反発もあり、反乱が起こるものの、最終的には中央の優位が確立してテマ軍団に支えられた政権の時代は終焉を迎えることに なるという道筋を示していきます。

そしてテマ軍人が8世紀初頭に軍民両権を握るようになり、そこからテマ制が出来上がっていくことになるなか、テマ軍団による反乱を地域の反乱、現地社会の 異議申し立てとして読み解く可能性を指摘しつつ、テマが分割・新設される過程で帝国統治のための行政区画として整備され、中央集権体制の時代を迎えるとい うことが述べられていきます。

ビザンツ帝国の歴史というと、古代ローマの要素を引きずる6世紀、7世紀前半と皇帝専制・中央集権の9世紀以降ということで、帝国の性格が大きく変わって いった様子がうかがえます。そのような変化が生じるのは何があったのかということで、8世紀から9世紀初頭という時代に注目し、国家の体制について検討し て、少ない史料を駆使して一定の方向性を示しているのが本書です。通常8世紀というと、聖像崇拝論争の時代ということであつかわれるのですが、政治体制に 注目している点が非常に面白く、興味深く読めました。

8世紀のテマ反乱の時代、皇帝は小アジアのテマ軍団に支えられ、極めて軍事的な性格が強く出ている政権の時代が続いていたようですが、それはのちの時代に もある程度残り、官僚から皇帝になったニケフォロス1世のような軍事とは縁遠い皇帝たちも自ら軍を率いて遠征しなくてはならなかったというところにそれは 現れているようです。ビザンツというと、「戦わずして勝つ」ための巧みな外交、正面からの戦いを避けるゲリラ戦的な戦い方といった指摘がしばしばあります が、様々な形で武威を示すということは前近代の君主にはよく見られることであり、戦術はさておきビザンツ皇帝も例外ではないというところでしょうか。

個人的に気になったことを。近衛軍タグマをあつかった章で、近衛連隊の4つの騎兵タグマの総兵力を5000から6000と見積もり、「中央軍」という呼称 から予想されるものより小規模という印象をうけているようです。しかし、イッソスの戦いでのアレクサンドロス東征軍の騎兵が5000とか6000という数 字をみなれていたりすると、騎兵で数千というのは決して小規模ではないように思ってしまうのですが、どうなのでしょう。