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しがない読書感想ブログです。teacupが終了したため移転することと相成りました。

イヴォ・アンドリッチ(栗原成郎訳)「宰相の象の物語」松籟社(東欧の想像力)

ユーゴスラビアノーベル賞作家であり、本ブログでも感想を書いた「ドリナの橋」の著者であるイヴォ・アンドリッチの中編と短編からなる一冊が出ました。表題作の「宰相の象の物語」、短編の「シナンの僧院(テキヤ)に死す」と「絨毯」、そして中編の「アニカの時代」からなっています。

表題作は、赴任して早々にボスニアの有力者たちを処刑し、恐怖で震え上がらせた宰相(ボスニア総督)がもちこんだアフリカゾウが街で引き起こす騒動と、その顛末を描いています。姿をほとんど現すことなく、恐怖で人を従える宰相の気まぐれで飼われた象の無邪気な振る舞いに過ぎないものが、町の人々から見ると権力による暴政そのものとなっているのですが、その描写から感じたり、考えることは色々とあると思います。

そして、物語の途中で、象のことで宰相に訴えようとしてできなかった町民が帰ってきたあとで語った英雄的なホラ話がそのまま広がり定着していくという展開があるのですが、英雄的な物語が作られ広まる過程の一つとしてなかなか面白いものがあります。

シナンの僧院に死す」は世間から学識と徳をもって知られ、生涯女を知らなかった修道師が今際の際に思い出した、数少ない女性に関する記憶とそれにまつわる罪悪感や自責の念を描きます。1度目は死体の発見、2度目は危機に瀕する状況での遭遇という形で女性と接点を持ちながら、然るべき対応を取らなかったことに対する罪悪感を内奥に秘め、それに苛まれながら死んでいく物語です。
 
2つの瞬間に女性と向き合い、見るべきものを見て然るべき対応を取れていたならば、彼の人生にはまた違う展開があったのやもしれません。見えたものを見ないふりをし、結果的に何もしなかった、そのように行動を縛ってしまうものが何なのか、そうしたものに縛られずに生きることは可能なのか、そのようなことを考えながら読んでいました。

そして短編の「絨毯」では自宅の所有権をめぐりウスタシャと係争中の老女がふとしたきっかけから思い出した、確固たる倫理観を持つ祖母がよその家からとってきた絨毯と酒を交換してほしいというオーストリア軍兵士の要求を決然と拒む物語です。侵略者に対しても毅然とした対応を取り、高い倫理観を示す祖母の姿を思い出した主人公が、それまで思案していた自宅をめぐる諸々のことをすっかり忘れてしまっているのですが、合理的な計算と毅然とした倫理的対応の相克を感じさせる話でした。

本書で一番ながい「アニカの時代」はまず神父が発狂する話からスタートし、このようなことはアニカの時代以来だというところから物語が始まります。性愛に溺れ、殺人に加担したことに対する罪の意識を抱え、人を愛することにトラウマを持ってしまい苦悩しながら生きる弱い男と、男との結婚にやぶれ、半ば開き直ったかのごとく売春宿を開き客を取るようになり、やがて町中の男たちを屈服させていった女の物語が描かれています。もっとも、アニカ自身が望んでこのようになったわけではないというところが悲しく、不幸であると感じさせるところでしょうか。

女は悪魔であり出産や仕事によりその悪魔を殺してしまわねばならない等々、さすがに女性観や女性の描写に時代の古さを感じるところがみられますが、日常の価値観や秩序が彼女の売春宿開業とともにひっくり返ってしまったかのような世界が描かれていて、身分の上下を問わず男たちを従えるアニカを中心とするピカレスクロマンのような物語でした。

本書の短編と中編はいずれもボスニアを舞台とし、キリスト教イスラム教が混在し、民族的にも色々な集団が暮らしている場所です(それゆえに旧ユーゴ解体時のボスニア内戦は苛烈を極めたわけですが)。語られている話が嘘か本当かはさておき、そこには人間や世の中に関する何かしらの真実が埋め込まれているように感じます。

翻訳がロシア語、スラブ系言語に詳しい訳者によるところは「ドリナの橋」の邦訳とは違います。「ドリナの橋」も可能ならば新訳を出してほしいところですが、はてさてどうなる。