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木曽明子「弁論の世紀 古代ギリシアのもう一つの戦場」京都大学学術出版会

古代ギリシアの文化というと、アテナイで上演された悲劇や喜劇、プラトンアリストテレスの哲学、そしてホメロス叙事詩といったものはよくとりあげられます。しかし、当時のギリシア人たちの政治や社会生活に大きな影響を持つものとして弁論があげられます。民会での演説や裁判での法廷弁論、軍議など、弁舌を振るい人々を説得する場面がギリシアの歴史では多く見られます。例えば古代ギリシアアテナイをみると、紀元前4世紀のアテナイ市民たちが様々な事柄で訴訟を起こしていたことがわかります。

こうした弁論は必ずしもある出来事や人物について正しい内容を伝えているというわけではない(ある弁論ではとても立派な人物として描かれた人物が別の弁論ではけちょんけちょんに言われていたりします)という点で、この弁論にこう書かれていたからという理由ですぐに昔にあったとはいえないところはあります。しかしこれらを手がかりとして当時の社会や政治の仕組みの一端がうかがえるなど,非常に興味深いものもあります。

本書の著者は西洋古典叢書においてデモステネスヤアイスキネスなどの弁論の訳に関わってきた方です。そんな方が、弁論を手がかりとしながら主に紀元前4世紀のアテナイにおける政治や経済、社会について興味深いことがら、さらにこの時代に台頭してきたマケドニアに関係する事柄を,デモステネスの名で伝わる紀元前4世紀の様々な弁論(デモステネスではない別人であるとほぼ確証されているものが結構ある)、そしてデモステネスの論敵となったアイスキネスの弁論を手がかりとして描き出していきます。

三段櫂船奉仕に巨額の費用を注ぎ込んだ新興市民と彼が訴えた昔からの有力市民、海上交易に従事した商人、銀山経営に関わるトラブルに遭遇した人や市民権資格の審査により面倒に巻き込まれた人など、訴訟で登場する人々は様々です。そしてこれらの訴訟をきっけとして、アテナイにおける公共奉仕のしくみや海上交易とそれに関する訴訟、鉱山の請負制、市民資格を巡る事柄に話が及びます。紀元前4世紀のアテナイに関する政治や経済活動に関する事柄を読み物として一般向けにまとめた内容となっています。将軍たちの狼藉など,いろいろな話題が登場します。

同時に、紀元前4世紀のアテナイを巡る政治情勢(第二次海上同盟の結成からその後の問題発生、同盟市戦争など)と、アテナイにとって非常に厄介な存在となっていったマケドニア王国の事情です。特に本書の後半ではデモステネス、そしてアイスキネスの弁論が多く扱われることになりますが、彼らが法廷で対決したのは,対マケドニア政策、マケドニアとの交渉といった事柄だということも関係するでしょう。デモステネスとアイスキネスという二人の弁論家がフィリッポス2世という巨人をどのように見ていたのか、そしてそれがかれらの対マケドニア政策の方向性とどう影響するのか、そのあたりが本書で扱われています。

デモステネスとアイスキネスがフィリッポス2世をどう見ていたのか、そしてフィリッポス2世は何を考えていたのかという感じの話が終盤にでてきます。デモステネスは反マケドニアの闘士のようになり、アイスキネスはマケドニアとの安定や「普遍平和」的なものを考えたという感じのようですが、どちらもフィリッポス2世という人物に対し、自分の見たい像を投影しているという感じでしょうか(これはイソクラテスにもいえることでしょう)。人は自分の見たいものを見る、というしばしばよく出てくる格言めいた物言いが思い浮かびます。

本書は古代マケドニアの通史ではないですが、デモステネス、アイスキネスの目を通した形とはいえフィリッポス2世治世下のマケドニアギリシア世界制覇の道のりがコンパクトにまとめられています。マケドニアに関する一般書がすくないなかでは貴重だと思います。なお、今月出たミネルヴァ書房の「はじめて学ぶ西洋古代史」でアレクサンドロス以前、特にフィリッポス2世時代は結構扱われています。これらを比べてみるのもまた面白いかと思います。紀元前4世紀のアテナイの政治や社会の内容も含め、一般向け読み物として結構面白く読めるのではないでしょうか。