まずはこの辺は読んでみよう

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金原保夫「トラキアの考古学」同成社

古代ギリシアマケドニアの歴史をあつかっていると、トラキアおよびトラキア人という用語はよく登場します。現在のブルガリアを中心に勢力を持っていた集団ですが、彼らについて日本語でまとまって読める文献というのはこれまで少なく、あるとすると展覧会図録かディアナ・ゲルゴヴァ「ゲタイ族と黄金遺宝」愛育社という状況でした。どちらも入手がなかなか難しい状況だと思われます。

そんななか、世界の考古学のシリーズを刊行している同成社から、トラキアを扱った一冊が刊行されました。タイトルは考古学ですが、青銅器時代や初期鉄器時代トラキアの遺跡や遺物、そしてトラキア人の分布とその移動といったことから、トラキア人の諸国の中で特に強大だったオドリュサイ王国の興亡、ヘレニズム時代、ローマ支配下トラキア、そしてトラキア人が歴史の表舞台から消えていくまでと、トラキア的要素のその後、現代への影響まで、幅広く扱っています。

前半ではトラキアの通史的な内容を、考古学資料および文献史料をもちいながらまとめています。新石器時代から語り始め、金石併用(銅石器時代)、青銅器時代から初期鉄器時代までを扱う第1章、トラキア諸族のなかで國を作り、ギリシア世界やマケドニアとも深い関わりがあったオドリュサイ王国の時代、マケドニアによる征服から後のヘレニズム時代、そしてローマの属州となってからあと、トラキア人たちが歴史の表舞台から消えていく7世紀頃まで通史としてまとめられています。

新石器時代青銅器時代、初期鉄器時代を扱った章は考古学資料をもとにまとめられ、トラキアで一時集落が途絶する移行期について、遊牧民の侵入や気候変動、社会構造の変化が想定されているということが紹介され、オドリュサイ王国時代以降の話はおもにヘロドトスやトゥキュディデス、ストラボンなど文献をもとに書かれている部分が多くなります。トラキア人たちがどのような歴史を歩んだのかをまとめて理解する上で、導入的な意味がある部分だろうと思います。バスタルナエ人はゲルマン系ではないかと思うのですが、全体として、トラキア人の歩みを知る上で有益な箇所です。

そして、本書のメインとなるのは後半のテーマ-別のパートです。通史的な部分ではオドリュサイ王国以降の内容については、ロゴゼン遺宝やセウトポリス遺跡の話、ケルト系の要素の遺物くらいがふれられる程度でしたが、こちらでは考古学の成果がふんだんに盛り込まれています。内容は社会経済に関すること、トラキアの軍事行動について、トラキア人の宗教、そして物質文化などが多くの発掘成果をもとに語られていきます。

テーマ別パートの内容は多岐に当たり非常に豊富であり、すべてを触れることは困難なため、具体的な事柄はいくつかの物に絞りますが、金銀豊富かつさまざまな「トラキア遺宝」にみられるトラキア人の物質文化の豊富さ、独自の精神世界、周辺地域との関わりについてよくわかる内容だと思いました。

例えば、署名入りの壁画にかかれたことや墓のつくりなどからマケドニアからの影響が窺える時期があったりすることがわかります。また、トラキア人の宗教や聖域・聖所、古墳などの墓のつくりや死者を弔う葬送儀礼についてのことについてもまとまった記述があり、彼らがどのような神々を信じ、どのような観念を持っていたのかといったことの一端がわかるようになっています。さらに発掘で見つかる武器や防具、馬具、古典史料をもとにしてトラキアの軍事に関して話が進められています。トラキア人はギリシア人やマケドニアと戦いを繰り広げていましたが、それについてもだいぶイメージがしやすくなると思います。

彼らの文化にかんしては、馬に関わるものが非常に多いという印象を受けました。馬に乗って戦うトラキア人戦士の図像、遺跡から発見される馬具、騎馬戦士の姿で描かれる「へロス」像、豪華な馬具や戦車飾りとともに墓に陪葬される馬、葬礼の場での馬術競技や戦車競技、神の馬としての白馬への信仰など、馬がトラキア人の世界において軍事的にも宗教的にも重要な存在であるということがよくわかる内容であり、非常に面白く読めるところだと思います。

そのほか、自らの文字は持たないがギリシア文字などをつかって書き残したものが存在すること、歴史の表舞台から消えた後もトラキア的要素が現地の文化の中に息づいていることなどが示されています。

本書はトラキアについてわかることを一般向けにわかりやすくまとめた一冊としてお勧めしていいと思います。トラキア人というとギリシア世界の辺境、遅れた異民族という印象が強い集団ですが、彼らが豊かな物質文化とともに独自の社会を作り上げていたことがわかるとおもいます。細かいところで、バスタルナエ人はトラキア系ではなくゲルマン系ではないかという疑問はありますが、ギリシア世界の隣人であり交流と衝突を繰り返した集団の歴史を知る上で役に立つと思います。