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森三樹三郎「梁の武帝 仏教王朝の悲劇」法蔵館(法蔵館文庫)

中国の南北朝時代の歴史を学ぶとき、南朝というと東晋以下宋斉梁陳という王朝が続き、貴族たちの力が強いということや貴族が担い手となる六朝文化といったことを習います。そのなかで、梁の武帝というと世界史用語的にはまず出てこない人物ですが(『文選』で有名な昭明太子の父親と言うことで話の流れで触れることはあるやもしれません)、梁の安定と繁栄の時代を築き、文化の保護者としてふるまい、のちには仏教を深く信仰した皇帝ということで知られています。

本書は南朝の梁の創業者にして事実上の亡国の君主となった武帝の生涯をあつかい、南朝の時代の政治や文化についての流れの中でそれを位置づけていく一冊です。漢(とくに後漢)の時代から魏晋、そして宋斉梁陳にいたる歴史の流れにいて、漢で漢学となった儒学だけでなく老荘思想(玄学)、文学、さらには史学までをふくめた諸学術の動向と、武帝個人に関することが組み合わさりながら話が展開していきます。単なる武帝一代記ではない、中国の学術の歩みと絡めた歴史が描かれています。

政治の時代であり国家の学問である儒学が重視された漢と比べ、魏や晋、その後の南朝では儒学以外の学問がかなり活発になり、文化・芸術・宗教の時代へと移行した時期でした。そのような時期に登場し、皇帝となった武帝個人も文人としての素養に恵まれ、儒学老荘思想(玄学)、史学、文学といったこの時代の学術にかなり深く関わっている様子が一章を使って描かれています。おおくが文学至上に流れる中で武帝はこれらの調和を重視したが、経国済民の精神を失った当時の儒教、孤高の精神を失った玄学、その妥協の上に成り立った調和に満足できなくなったとき、武帝が選んだのが仏教であったというのが著者の見立てです。護国の手段として仏教を利用する鎮護国家的路線ではなく自らが篤く信仰する仏教に基づく政治をすすめるという路線をとったことが、結果として武帝の悲劇的な最後、ひいては梁の滅亡につながっていくということになるようです。

また、寒門出身の皇帝が権力を振るい恐怖政治的な状況が生じていた宋や斉の時代とくらべ、武帝の梁は安定と繁栄を享受し、文化が栄えました。安定をもたらしたのは武帝の寛容仁慈の君主としての姿勢の影響も大きいようです。寒門出身の人間を重く用い、権力を集中し、従わぬ者に対しては苛烈な対応を辞さず、それ故か王朝交代に伴い悲劇が生じてきた宋斉と比べ、梁はその点では比較的平和です。そして寛容仁慈の政治もまた仏教的理念の影響が強く、本書では武帝の政治は仏教的理念に基づいて行われるようになっていったのではないかと見ています。しかし、武帝の寛容仁慈に潜む問題も指摘しており、寛容仁慈の対象から庶民は外れていることや、寛容仁慈が弛緩・放縦、子弟間の不和をまねいたといったことがあげられています。厳しく締めるべきところを締めない甘い対応の積み重ねが結果として梁滅亡につながったというところでしょうか。

儒教と仏教、儒教老荘思想にせよ、相容れない部分がある思想や宗教の間で調和をとっていくという南朝教養人の在り方をみていると、全く異なるものの調和とバランスを取る上では、あまり深入りしない、根本的なところまで掘り下げて考えない、それが実は肝要であるように見えてきます。本書を読んでいると、武帝の悲劇的な最後と梁の滅亡は避け難いものだったかのように見えてきますが、何かに真摯に向き合い深く探究する姿勢と現実と折り合いをつけていくことははたして両立するのか、するとしても相当な困難を伴うのでは無いかという気がします。

原書がでてから長い年月が経っており、その間に研究もさらに進展しています。いくつかの点では乗り越えられているところもあるのかもしれません(例えば武帝の捨身について、河上麻由子「古代日中関係史」では高度な政治的行為として見ています)。そういった点があるにせよ、面白く読める本だと思います。「侯景の乱始末記」とあわせて読むとさらに面白いのでは無いでしょうか。