まずはこの辺は読んでみよう

しがない読書感想ブログです。teacupが終了したため移転することと相成りました。

M・シュクリュ・ハーニオール(新井政美監訳、柿崎正樹訳「文明史から見たトルコ革命」みすず書房

長年に渡り東地中海世界に君臨したオスマン帝国も、19世紀には「瀕死の病人」などと呼ばれる状態になっていきました。そして第1次世界大戦のあと、トルコ革命によって帝国は滅び、新しいトルコ共和国のもとトルコ民族主義をおしだしつつ、イスラムを抑え西洋を手本とした近代化と世俗主義路線に舵を切ったというのがトルコ現代の流れといえるでしょうか。

この新しい共和国を建国し、イスラム的な物をおさえながら西洋近代を理想として世俗主義路線をすすめていったのが、トルコ共和国建国の父であるムスタファ・ケマル・アタテュルクでした。しかし、彼が何も無いところから突然西洋近代を理想とする世俗主義国家を作り上げていったのかというとそういうわけではありません。本書では、ムスタファ・ケマルを近現代の歴史的文脈の中に位置づけることをめざし、さらに彼がどのような過程を経て思想を形作っていったのかということや、オスマン帝国トルコ共和国の連続性も探ろうとします。

まず、彼が生まれ育った町テッサロニキコスモポリタンな大都市であり、教育制度についてもヨーロッパの学問や思想の影響を受けた世俗的教育を行う学校もあったこと、さらにその後の歴史においてテッサロニキが他国に奪われたということの影響は考える必要があるようです。特にテッサロニキを奪われたということから、軍事力の必要性と、支配の正統性主張のために歴史が重要であると考えるようになったというのは、その後を考える上で大事でしょう。

また、かれは軍人養成課程に入り、士官学校にも進学していますが、彼が学んだ当時の士官学校は単なる軍事の専門家を育てるのではなく、戦争が「総力戦」となる時代と捉え、兵士となる国民を導く事が出来る新しいエリートたる軍人を育成する場であった事が示されていきます。ケマルもまたこうした環境でエリート主義的な考え方を身につけていったことが示されています。

そしてこうした学校で学んだ将校たちが多民族国家オスマン帝国で人々をまとめる手段として、トルコ主義(トルコ民族主義)に惹かれるようになっていたことも指摘されています。後年、トルコ共和国ではあらゆる文明の起源をトルコに求めたりする歴史研究や言語の研究が行われていますが、トルコ民族としての一体感を高めるために歴史や文化の研究を進めさせたのはケマルでした(一方でイスラムの後進性や、オスマン帝国を否定的に捉えるところもあるのですが)。正直、学問と呼ぶには相応しくないようなものも色々含まれていたのですが、国家建設のための道具として使えるとなると、現実の状況に都合の良い形で過去が利用されていくようです。

トルコ主義(トルコ民族主義)やエリート主義以外にも、ケマルが強く影響を受けたものに科学主義が挙げられています。改革期のオスマン帝国において俗流唯物論社会進化論実証主義といった思想が知識人層に受け入れられ、青年トルコ革命の担い手となるような人々も科学が進歩をもたらすとする諸々の考え方から強い影響を受けていました。ケマルもまた例外ではなかったことが示されています。かれを含む知識人たちの間では、科学は進歩を、宗教は後退をもたらすとして二項対立的に捉えられていた様子も窺えます。そして科学主義と民族主義を二本柱として成立したトルコ共和国では徹底した世俗主義政策がとられ、イスラム的なものは後進性の象徴の如く扱われ排除されていきますが、西欧化改革を進めたオスマン帝国時代の人々に対し、ケマルの場合は古いものは打ち壊し、新しい物と入れ替える、徹底した改革を志向したという点で大きな違いが見られるようです。

では、彼が教条的な科学主義者・民族主義者として硬直した政策しか取れなかったのかというと、本書では柔軟な実務家としての一面を持っていたことも示されていきます。彼が共和国時代にイスラムを西洋的価値観のコントロール下におこうとする路線をとったことからは想像できないかもしれませんが、アンカラに臨時政府を構え革命を進めていた時代にパン・イスラム主義的な姿勢をあえてとった事がその一つの例といえるでしょう。理由としては、外国の支援(ヒラーファト運動を進めるインド、中央アジアなど)をうける、イスタンブル政府との競合関係、連合国および連合国の支援する勢力との抗争での優位確保、こういったことが関係するようです。また彼自身は社会主義は好まなかったようですが、共産主義を擁護し、社会主義の原理を強調するような姿勢を取ったこともあります。

彼自身は理論を打ち立てて人々をまとめるタイプではないのですが、軍事的な指導力および外交感覚という点で非常に優れた人物であると言うことは、粘り強い戦いと外交努力を通じて連合国とその関係勢力の干渉を退け、新生トルコ共和国を樹立する過程で十分に示されていると思います。そして建国後はその有り余る活力が徹底した西洋化・世俗化路線の追求、イスラムの排除、オスマン帝国の遺産の無視を通じ、エリート主導で国家や社会を作り変えようとする形で現れていきます。トルコ共和国世俗主義政策はエリート層主導で一般大衆にはそれほど広がらなかったという一面もありますが、一方で現在エルドアンのもとで進むイスラム主義的路線のもとでも科学主義やトルコ主義といったものは強い影響を与え続けているようです。

興味深いと感じたことをあげていくと、パン・イスラム主義を帝国統合の手段に使いつつ専制政治をしいたと日本の世界史では教えられるアブデュル=ハミト2世の時代の再評価でしょうか。最近ではエルドアンのように彼を評価する者も現れたり、苦難の時代に立ち向かった啓蒙的国家指導者として扱うなど再評価も行われているようですし、実際様々な近代化が進められた時代でした。なお、アブデュル=ハミト2世は青年トルコ革命のあと、しばらくして帝位を追われるのですが、かれを追い落とした人々(若手将校など)の多くが、彼の元で整備発展が進んだ近代的な教育制度のもとで育った人々だというのはなんとも皮肉な結末でしょう。

いろいろなことを書いているうちに、だんだんとまとまりがなくなってきてしまいましたが、トルコ共和国建国にあたり、科学主義やトルコ民族主義の影響を強く受け、国家を建設してからは徹底した西洋化を推進し、トルコの社会を大きく作り替えたということ、彼の思想形成にはオスマン帝国後半から末期の西洋化路線の改革が強く影響していることがまとめられています。日本語版につけられた訳者による解説は、エリートが主導する西欧化した世俗主義的国家としてのトルコ共和国の成り立ちと、それから年月を経てイスラムを前面に出す政治家に統治される今のトルコ共和国を比べてみたとき、違う点もあるが引き継いでいる部分もあることに気づかされ、なかなか興味深い論考となっています。