まずはこの辺は読んでみよう

しがない読書感想ブログです。teacupが終了したため移転することと相成りました。

コルム・トビーン(栩木伸明訳)「マリアが語り遺したこと」新潮社(新潮クレストブックス)

年老いた、もうすぐで寿命が尽きそうな女性のもとに2人の男が訪ねてきます。そし彼女に対して色々と質問をして、それを元に何かを描きたいようです。しか し彼女は彼らが望むようなことは一切答えず、そのことが原因で彼らの間には緊張状態が生じています。このような状態を彼女自身が語り、さらに時には過去の 話も現れます。

この一人語りをしている女性はマリア、イエスの母親であるマリアです。本書では「聖母」マリアではなく、イエスという一人の若者の母親としてのマリアが、 かつての穏やかで幸せだった過去、そしてイエスが真理化から見てかなり問題のある人々とつきあうことやそれに伴う変化に対するとまどい、そしてゴルゴダの 丘で磔にされるときの「真実」などを語っていきます。

我が子の変貌振りに戸惑いながらも身を案じ、我が子が磔にされる時に苦しむ様を見ても何もできずただただ見守るしかないことに無力感を感じ、そして苦い現 実から逃避するような夢を幾度となく見るところからは、神の子を生んだ「聖母」マリアではなく、人間イエスの母としてのマリアの生々しい感情が描かれてい るように感じました。そして、子供が自分の思っていた姿と違う形で成長し、親がそれに対して戸惑いを覚えているマリアについてはおそらく子供を育てたこと のある人には色々と考えるところ、思う所があるかと思います。

この本において、イエスの磔にいたるまでの場面で自分の思っていたこととは随分違う、かつ過酷な現実を目にしたマリアは様々な想像を巡らせたり夢の世界に身を浸してい ますが、夢や空想の世界に浸る事が精神の均衡や心の平安を何とか保とうとするための緊急避難手段のような役割を果たしているようです。そして、マリア自身 は夢の世界と現実に区別をつけ、あくまでも「真実」を語ろうとしているのですが、それがイエスの弟子によってそのまま記録されるのかというとどうやらそう ではない様子がうかがい知れます。彼らもまた教祖の「奇跡」や彼の逮捕と磔という現実に直面し、そこに自分達の願望を投影し、「伝説めいた」イエス像を形 成して流布しようとしています。ありのままの真実を伝えることは果たして可能なのか、そもそも「真実」は語りうるのか、読んでいて少々その辺りで考え込ん でしまいました。マリアの語る「真実」が果たして本当のことなのかもこれだけでは分からないのですから。

結局の所、彼女の語る「真実の」イエスの姿ではなく彼女の元を訪れて色々な質問を浴びせ、常に自分の思うとおりの答えを答えさせようとする2人の男(イエ スの弟子のうちだれでしょうか。短気な方は何となくパウロっぽい気がするのですが)たちの書いたイエス像が「福音書」として後の世に伝えられていくことに なるわけですが、自分達の信じたいものを書いて残すということは宗教関係に限らず色々な場面で起きているというところでしょうか。この本は一部の聖職者か ら批判を浴びたとのことですが、マリアの描き方のほかにこういう風にとれるところも問題になったのではないかと思います。