まずはこの辺は読んでみよう

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(再読)森谷公俊「王宮炎上 アレクサンドロス大王とペルセポリス」吉川弘文館

アケメネス朝ペルシアのダレイオス1世が建設を開始したペルセポリス、その遺跡に残るアパダーナの浮彫や列柱の写真をどこかで見たことがある人はいるので はないでしょうか。この巨大な王宮を焼き払ったのがアレクサンドロス大王で、それ故に現代のイランでは、大王の野蛮さを強調する言説が今でも流布していた りします。こちらの記事を参照(読売新聞のサイト)

では、ペルセポリスの王宮を何故焼き払ったのか、それは事故だったのか計画的だったのか、王宮を焼いた意図は何があったのかという事に関して、これまでにも多くの研究者が論文を書き、意見を発表し、議論が繰り返されてきました。

本書では、まずペルセポリスの建設に到るまでのアケメネス朝の話、そしてペルセポリス建設の話からスタートします。その跡はアレクサンドロスが東征を開始 してペルセポリスに入るまで、そしてペルセポリス都市部の掠奪や王宮の財貨接収、そして4ヶ月にわたる滞在についてをまとめ、いよいよ本題の王宮炎上事件 について扱っていきます。

まずは現存するペルセポリス王宮炎上に関する古代の文献史料について、大王に関する史料の性格の概略を述べたうえで、古代の文献史料では王宮炎上が酒宴が きっかけでおきた衝動的な出来事とする伝承と、計画的に王宮に火をつけたとする伝承があることがしめされていきます。文献史料からは、ペルセポリス王宮炎 上について、その時期が春であった事を特定することは可能だが計画性の有無や炎上の意図についてはわからないようです。そこで、計画性の有無を検討するた めにペルセポリスの発掘調査の成果が活かされていきます。

そして発掘報告書など考古学の成果を用いて出した結論としては、ペルセポリスの王宮の放火は、特定の場所に大量の灰が堆積していること、火災のあった場所 の床には小物類が散乱していたがその上に灰が堆積し、踏み荒らされた形跡がないことから短期間の掠奪の跡に放火するとそのままダレイオス追撃に出たという 形で王宮放火の前後の出来事が復元できるようです。こうしたことからペルセポリス放火は組織的・計画的に行われたと結論づけられています。

では、計画的とするとその意図は何かと言うことになりますが、ここからは状況証拠によるところが大きくなってきます。対ギリシア向けアピールなのか対ペル シア向けアピールなのかという違いもありますし、対ギリシア向けでも報復完了の知らせかギリシア人への脅しなのか、対ペルシア向けとすると対アジア人向け 政治アピールととるか近隣ペルシア人への脅しなのか、色々な解釈があり、本書ではなかなか従わないペルシア人に対する脅しを目的としつつ、表向きは報復完 了のアピールとしたという説を採っています。

そして、タイスによる煽動、身体に障害を負わされたギリシア人達、ペルシア門での道案内人、この3つの話についてはギリシアによる対ペルシア報復戦争とい う観点からの創作であること、ローマ時代のアレクサンドロスの伝記においてペルセポリス炎上という出来事がアレクサンドロスの暴君化の出発点のように位置 づけられているといったことを示していきます。

本書は森谷先生のアレクサンドロス研究のかなり初期の作品であり、既に「アレクサンドロスの征服と神話」で著者なりのアレクサンドロス像が示された今に読 み直すと、まだアレクサンドロスの実像の一端を探り始めたという段階です。ペルセポリス炎上が計画的であったと言うことは大体の人も認めるのではないかと 思いますが、本書において示されたペルシア人懲罰説という見解に対し賛同する人、承伏しかねる人は色々といるでしょう。しかし私は王宮炎上に到るまでのア レクサンドロスのしてきたことを考えると、一番妥当なのではないかと思います。そして、様々な伝承が幾重にも重なり、次々に創作が付け加わり、現在伝わる ような大王像が形成されていますが、それを一つ一つ引きはがしながらアレクサンドロスの実像にせまるのは非常に困難を伴う作業ではないかと思いますが、そ れを地道に進めていくことが研究者のするべき事だと思います。