まずはこの辺は読んでみよう

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馬部隆弘「椿井文書 日本最大級の偽文書」中央公論新社(中公新書)

アレクサンドロス大王研究でも大王が死ぬ数日前の状況を伝える、エウメネスがのこした「王室日誌」が真作か偽作かをめぐって論争があるように、ある史料の真偽をめぐる問題が発生することもあります。歴史研究において史料として用いる文献や文書、絵画や発掘により見つかったものに関して、それの真偽については先行する研究を通じそれなりの検討と蓄積があり、そのおかげである史料をそれなりに信用して使うとができるようになってはいます。

しかし、ある段階で知見の蓄積が途切れてしまった場合にはどうなるのか。戦前は偽文書ではないかとして警戒されていたものが、戦後になって地方史の史料として重宝されていろいろなところで使われ、学校教育にまで影響を与えているような偽文書があると著者は指摘します。それが本書で扱われている「椿井文書」です。本書ではこの文書がどのように作られ、どのように流布し、それがなぜ受け入れられたのかを示し、さらにこの文書がどのような影響を与えたのかということと、歴史研究者がこれとどのように向き合ってきたのかを扱います。

まず、「椿井文書」は江戸時代後期の椿井政隆が中世の古文書や絵図を写したという体裁で作られた一群の文書や絵図のことを指しています。彼は主に村と村が利権や地域における主導権などをめぐり争っているところによく関わり、村同士の相論を有利にできそうな材料を提供するような感じで縁起や系図、由緒書を作っていたようです。そうした文書は相互に関連性があるような作りになっていて、地域に関しても複数の地域が関連するようになっているなど、かなり手が込んだ作りになっています。

これだけいろいろ作っていると、偽作が露見し、問題になることもあると思うのですが、そういったことを避けるための工夫らしきものにも触れられています。まず、彼が活動しているのは都市ではなく農村が中心であるということ、そして明かに未来の年月日を設定していることなどが挙げられます。偽文書だと追及されにくいところを選んで行動し、さらに偽文書とばれても冗談だと済ませられるような仕掛けと評価されています。ただし、内容の多くはごくありきたりで特に珍しい内容はないが、基本文献と一致するということが彼の文書の信憑性をより高める効果があったという指摘もなされています。

こうして作られた文書を、あるものは疑いを抱きながらも利用できそうであれば受け入れ、またあるものは積極的に採用しといった具合に当時の人々の対応には差がありました。椿井政隆自身も、顧客のニーズに応えて何度も書き加えたり、依頼者のニーズに応えてある部分だけは非常に詳細な作りになっている文書もあるということも指摘されています。初めから完成品だったわけでなく顧客とのやり取りを通じ完成させていったというところでしょうか。偽文書であっても自分たちの立場を有利にする文書であれば良いというのが江戸時代後期の村落社会の状況といったところでしょうか。

ただし、あきらかに偽文書とわかるものがあったり自分の考証に基づきパノラマ絵図のようなものを作っているところなどから、趣味としてこういったものを作成していたという面もあるようです。現代の作家にこりに凝った独自の世界設定を作り上げている人はいます(トールキンとか上橋菜穂子とか)。また最近アニメ化された漫画「映像研には手を出すな」の主人公のように非常に凝った独自の世界を作ろうとするクリエイターというのはじっさいにもいるでしょう。椿井政隆の作り上げた文書もそういった類のものはおおくあるようですし、案外楽しんでやっていたのかもしれません。

しかし本人は遊びで作ったつもりのものが、別の人間にとり利権獲得や社会的上昇の手段、村おこしや町おこしの材料として使えるとみられると、いろいろと問題もでてくることもあります。その辺りは第5章、第6章で触れられています。著者がかつて枚方市で市史関係の職についていたとき、伝王仁墓についての記載を訂正するように求めた際の出来事などにもみられますが、自治体の市史編纂や地域の歴史を扱う際に椿井文書が根拠となっているものもかなりあるらしく、一度公的なお墨付きを与えてしまった事柄を撤回することは極めて難しいということがわかるかと思います。

では、なぜこのような事態が発生したのか、歴史研究者は一体何をやっていたのかと思うかもしれませんが、第6章では歴史研究者と椿井文書の関係に言及が及びます。椿井文書に対して戦前の歴史研究者にはその存在をふくめ問題点も認識されていたようなのですが、戦後になって公職追放や研究者の就職、在野研究者と中央研究者の連携の希薄化などにより、椿井文書についての情報共有が弱まっていたようです。さらに高度経済成長期以降の自治体史編纂の活動にとり極めて魅力的な史料として活用され、一度それを使って研究を行った場合、そこから脱却するのはなかなか難しい様子も伺えます。研究の蛸壺化や活字史料しか見ないことの弊害にも触れられます。研究者が果たすべき役割、責務について考える必要があるのかなと思う章でした。

「偽文書」というと、何も価値がないと思うかもしれませんが、これがなぜ作られたのか、それを作った人の知的・思想的背景はどのようなものだったのか、そしてこれを求めた人々はなぜ求めたのか、「偽文書」を取り巻く人々の様子から、その時代や社会を見ていくという手法は物によりかなり効果的なように思われます。本書ではその来歴や影響を描く方が多かったようにも思いますが、偽文書を手がかりとして時代や社会の要素を描くという方向の本を次は読んでみたいなと思う一冊でした。