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小池登・佐藤昇・木原志乃(編著)「『英雄伝』の挑戦」京都大学学術出版会

ヒストリエ」の主人公エウメネスの主要な伝記史料のひとつはプルタルコス「英雄伝」に書かれたエウメエネス伝です。古代ギリシア・ローマ世界で活躍した人物2人を対比するかたちでまとめあげた「英雄伝」は日本語も含めた諸言語で訳され、多くの人々に読まれています。そのほか、近年京都大学学術出版会から全訳が刊行された「モラリア(倫理論集)」とよばれる世の中の様々な事柄について書き連ねた作品も残されています。

これだけ色々な作品を書いている彼について、詳しく研究がおこなわれてきたかというと、それほど深くは研究されておらず、本邦ではプルタルコス研究はあまりなかったようです。そんなプルタルコスの「英雄伝」について、歴史学、哲学、文学、それぞれの分野の専門家があつまり、「英雄伝」という書物がどのような性格を持つ本なのかを論じていく論集が刊行されました。

歴史学の立場からプルタルコス「英雄伝」を考察する第1部では、伝記の伝統のなかに「英雄伝」を位置付けようとしたり、ある意味アレクサンドロスの評価を決定付けた「英雄伝」のアレクサンドロス像に込められたものの考察と後世への影響を論じたり、陶片追放について彼が様々な文献を参照しつつもそれまでにない視点を提示するという、歴史を書く営みを考える章からなっています。

その後の第2部は哲学的なことがらをプルタルコスの女性描写や自然描写から考察し、また政治指導者の伝記を書くことについての哲学者としての意図を描き出し、第3部では「比較」という表現技法や、語り手である「私」と読み手の関係を考え、他の同時代作品と比べながらこの作品の性格を考える章があります。そして「英雄伝」がどのような順序で書かれたのかも考察していきます。

個人的に興味深いと思った章はいくつかありますが、語り手と読み手を論じた章が自分の興味関心とも重なるところがあり、面白く読めました。ここでは、プルタルコス自身がしばしば登場するものの、その現れ方は控えめな感じであることや、伝記を通じある人物について一方向に教えるという形ではなく読者を「徳の探求」に引き込もうとする仕掛けも施され、「徳の探求」のための主体的読書が求められているような要素が見られることが指摘されています。昨今はやりの表現をあえて使うなら「主体的・対話的で深い学び」を書物の上で実現させようとしているかのようです。

また、「アレクサンドロス大王伝」を扱った章では、プルタルコスが「モラリア」や「英雄伝」を通じて人々に広めたアレクサンドロス大王のイメージが現代の歴史家たちに与えた影響力の強さを感じさせます。軍事的天才としての大王という姿は古い時代からあったようですが、かつてはアレクサンドロスについて暴君的要素をみてとる否定的な評価もあったものが、プルタルコス以後は「文明化の使徒」「東西融合の理想の推進者」といった描かれ方になり、それが現代の歴史学にも多大な影響を与えてきたようです。一方で最近はそれと逆の方向で極端な描かれ方もされているようで、それはそれでまずいようにも思います。

政治指導者の伝記を構想し、偉人として扱うには少々難のある人物も盛り込み徳と悪徳の両面を知ることによる教育的効果をねらった「英雄伝」という書物を、歴史、哲学、文学の枠を超えてギリシアやローマの文化的営みの中でどのような位置づけになるのか、後世にどのように影響しているのかを描き出そうとした本であり、「西洋古典学」というのはこういうものなのだなあということを読んで感じ取れる一冊だと思います。