まずはこの辺は読んでみよう

しがない読書感想ブログです。teacupが終了したため移転することと相成りました。

ジュリアン・バーンズ(古草秀子訳)「イングランド・イングランド」東京創元社

時代は現代のイギリス、独裁的かつエネルギッシュな大富豪サー・ジャック・ピットマンがイングランドのワイト島にあるテーマパークを建設することを計画し ます。そこには多くの人が「イングランドらしい」と思うものがこれでもかとつぎ込まれました。ロンドン塔、二階建てバス、マンチェスター・ユナイテッド、 ぬるいビール、ロビン・フッドとその仲間たち、バトル・オブ・ブリテン等々がワイト島に集められ、やがて王室までもこちらに移ってきます。一方で「本物 の」イングランドはテーマパークに取って代わられ、何時しか衰退し、呼び名から生活様式まで大きく変わってしまいました。

このような世界が舞台となる物語ですが、主人公として設定され、全編にわたり登場するのがマーサ・コクランです。第1部でマーサの幼少期が扱われ、第2部 でマーサがテーマパーク計画に関わり、一時の栄華ののちにそこを去っていくという展開があり、第3部では年老いたマーサが再びイギリスにもどり、「本物 の」イングランド(第3部ではアングリアと呼ばれています)での暮らしが書かれていきます。このマーサ、かなりシニカルな人ですが、第1部を読んでいると 幼少期より既にその片鱗はうかがえます(教会の祈りのパロディはねえ…)。しかし、長い放浪の末にアングリア(「本来の」イングランド)へ帰り着いた、真 実の愛をもとめながら結局それは叶わなかった第3部のマーサの姿は切ないですね。

以前、この著者の「終わりの感覚」をとりあげたとき、歴史について「不完全な記憶と文章の不備から生まれる確信である」という一文を取り上げました。この 作品は「終わりの感覚」よりかなり前に書かれていますが、記憶や過去をめぐるこう言うとらえ方はやはりこの作品にも見て取れました。第1部のマーサの過去 の記憶を巡る話(最初の記憶を結局捏造してしまいました)だけでなく、テーマパークを建設する際に人々にアンケートなりインタビューを行ったときに露わに なる人々の思い込みの強さ、そしていつしか役になりきっていくテーマパークの人々(サミュエル・ジョンソン博士の話はちょっと悲しく、ロビン・フッドとそ の仲間の話はお笑いですね)等々、我々が信じ、拠って立つ世界とはかくも不安定でもろいものなのかと改めて思い知らされた感じがします。

本物と偽物という区別については、何が本物で、何が偽物なのか、その境目は曖昧であり、いつの間にか入れ替わることもあるのかもしれませんし、「本物」っ ぽい、「リアリティ」があれば多くの人はそこに満足し、それ以上のことを知ろうとはしないのかもしれません。テーマパーク建設者、この世界の創造主である サー・ジャックにしても、死んだ後しばらくは立派な廟が作られそこに多くの人が行っていたけれど、全く同じ格好をした2代目、3代目が出てくると何時しか 忘れ去られてしまいました。この世界で必要なのは生身のサー・ジャックではなく世界の秩序を維持するための象徴としてのサー・ジャックだった、中の人が何 であれ、「サー・ジャック」がそこにいればよい、というところでしょうか。面白いのだけれど、なんとなく重いものが心の底に残る、そんな1冊でした。