まずはこの辺は読んでみよう

しがない読書感想ブログです。teacupが終了したため移転することと相成りました。

河合祥一郎「謎ときシェイクスピア」新潮社(新潮選書)

第1部ではシェイクスピア別人説をとりあげ、フランシス・ベーコン、マーロウ、ダービー伯、オックスフォード伯といった昔から別人候補として取り上げられる人々から、最近の新しい説(ラトランド伯、外交官ヘンリー・ネヴィル)、さらにはある意味もっとも強力なグループ執筆説(これについての本を読むとエリザベス朝の文化に詳しくなれるらしい。理由は色々な文化人が出てくるから)まで、それぞれ取り上げていって、魅力的な偶然の一致と問題点を色々と見ていきます。

 

そのうえで、第2部ではストラットフォード・アポン・エイボン生まれのウィリアム(以下本書に倣いウィルと表記)について扱っていきます。ウィルがシェイクスピアであるという決定的な証拠をまず提示し(最初の戯曲全集を出したのが長いつきあいのある2人の役者だったり紋章購入時の登記書や遺書の記述からそういえる)、別人説が成り立たないことを示した上で彼がいったい何者かをまとめています。この辺は推測が多くなりますが、状況証拠から見てそうだろうといえること(ランカシャー地方の貴族の家に出入りしていた、カトリックとのつながりなど)もふくめ、彼がどのような活動をしていたのかをまとめています。この第2部がシェイクスピアの伝記的な役割を果たしているとおもいます。

 

第3部ではこれまで学界で通説となっていることでもおかしいことがある一つの例として「成り上がりのカラス」と言われているのは何者かを取り上げます。通説では「ヘンリー6世」の台詞をもじった一文があることからこれはシェイクスピアとされますが、「成り上がりのカラス」という揶揄が行われた頃「ヘンリー6世」といえばシェイクスピアという連想が働くかというと難しい状況であり、また劇作家がそれほど注目される時代ではないという状況、さらに批判されているのは自分で台詞を考え出せない役者であること、そもそもこの言葉が出てくる文章ではそもそも劇作家という仕事自体を否定していることなどをあげて否定し、これは当時の人気役者エドワード・アレンのことであると結論づけています。

 

そして第4部では彼が書いたテクストはどれか、何をどのように書いたのか(共同執筆など)、さらに当時の執筆に対する認識(シェイクスピア自身は戯曲の出版を考えていなかった等)、一つ一つの作品を丹念に見直すことの必要性、シェイクスピアだけをエリザベス朝から切り離して考えるのではなく、そこに戻して考えることの重要性を訴えて本書は終わっています。

 

この本自体は英文学の本なのですが、別人説を採る人々が些細な事実に深い意味があるように述べ立て、事実誤認や誤解を交えて謎を作るというトリックには注意せよと著者は言っています。また、、現代的感覚を安易に持ち込むことの危険性についても考えさせられるところがあります。読んでみて、やはり学問的装いを凝らしているけれど全く別なものとして「別人説」については考えるべきで在ると思います。また、学問的に通説となっていることであっても思いこみや誤解がそのまま残っていることもあるということを気にとめておく必要はありそうです。さらに、やはり歴史的文脈を無視して語ることは出来ないということも忘れてはいけないでしょう。