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しがない読書感想ブログです。teacupが終了したため移転することと相成りました。

良知力「青きドナウの乱痴気 ウィーン1848年」平凡社(平凡社ライブラリー)

1848年はフランス二月革命をきっかけに、ドイツ三月革命イタリア統一を目指した活動、ポーランドハンガリーの動きなど、ヨーロッパ激動の年でした。「諸国民の春」という単語を目にしたことがある人もいるかと思います。

この時の革命について、教科書的な説明としては、二月革命三月革命のような動きが、急進化がすすむなかで自由主義者が保守化し、失敗に終わっていったこ と、それまで見られた貴族などの特権的階層と市民の対立にかわり、資本家と労働者の対立が表面化したことや、自由主義社会主義の対立が浮上してきたと いった、しかし社会変革や独立は失敗したが、民衆の存在を保守派の政治家であっても無視できなくなっていったことなどがまとめられているとおもいます。本 書では、そのうちのウィーンの革命とその顛末について扱っていきます。

本書において、全体を通じ、当時のウィーンがその構造からして社会階層や身分の違いといったものが強く反映された社会であることが示されています。二重の 壁に囲まれたウィーンの真ん中は中世以来の都市、市内区で、市壁によって環状に囲まれていた。さらに市壁から600歩以内は建物を建ててはいけないエリア とされ、市壁の外にはグラシで(緑地帯)が広がり、市民の憩いの場となっていました。グラシの外が市街区で、これをリーニエ(土塁のようなもの)が取り巻 き、小市民、親方や職人が暮らす商工業がそこで暮らしていました。リーニエの外側には同じウィーンの街に暮らすといっても、市内の豊かな人々とは違う「他 国者」が住み、ガリツィアやボヘミアといったよそからやってきた貧しい人々が住んでいるという具合です。

ウィーンの革命の展開自体は3月から5月の革命が華やかなりし頃も、市民とボヘミア人、ユダヤ人など他所者の対立、市民とプロレタリアとの対立は潜在し、 市民や学生から労働者へと主役がうつりゆく中で既存の共同体に対する反乱の様相を呈し始めます。この頃になると権力者以外に司祭、裁判官、工場主、パン 屋、肉屋などが攻撃に対象になり、暴力的な衝突としてプラーターの星衝突事件が8月下旬に発生、そして10月の皇帝軍による鎮圧というような流れです。そ の流れはおさえつつ、その合間に当時のウィーンで生きた人々の暮らしの一端がわかりやすく書かれて再現されているところ、それが本書の特徴と言えるでしょ う。革命前の人々の暮らしぶり詳しく書かれ、当時の様子が目に浮かんでくるような生き生きとした描写により、当時のウィーンの社会の様子が詳しく描かれて います。また、社会史関連の著作でよくでてくるシャリヴァリについてもあつかわれています。

ウィーンの社会についてわかりやすくまとめた本書では、革命が始まった後も人々の分断があることをうかがわせるような事例も色々あげられています。革命勃 発後に市外からの防衛のために作られた国民軍がある一方で昔ながらの市民軍もあり、この両者の間での調整で一悶着があったりします。また市民軍や市内の国 民軍は10月の皇帝軍の攻撃に対して実際に戦うことなく、この時に戦ったのは市外の人々やプロレタリアといった、ウィーンの町で特権を持たない人たちだっ たというところにも、ウィーンの人々の実際の状況が現れているようです。そして、アカデミー兵団の学生たちが夏休み中に帰省している間にどうも連帯意識が 冷めてしまったらしく多くが帰ってこなかったという事例もあり、皆が一丸となって動くということは中々難しいということを痛感させられます。

そして、この革命のなかでは支配下の諸民族も様々な形で革命に関わっていることも示されていきます。ハンガリーは独立達成に利用できると判断して革命を支 持し、ハンガリーからの独立のために戦うクロアチア兵が最終局面で革命を鎮圧するために使われ、それに対抗した人々の中に生活の糧をもとめリーニエ外に集 まってきていたボヘミアの人々などスラヴ系の流民が多いといった具合に、革命を支える側とそれを鎮圧する側の両方に分かれる形で多民族帝国オーストリアに 暮らすスラヴ系民族どうしの戦いという、民族解放闘争というにはまとめづらい複雑な展開がそこにはあります。

教科書的な市民革命論をなぞるのでなく、具体的な事例を積み重ねながらウィーンの社会の様子を描き、そこから革命が始まり終焉を迎えるまでの過程を解き明かしていく本書は、今読んでも色々と考えるところは多いのではないでしょうか。