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久芳崇「東アジアの兵器革命 十六世紀中国に渡った日本の鉄砲」吉川弘文館

16世紀、戦国時代の日本に入ってきた鉄砲は瞬く間に広がりました。そして日本の火縄銃と射撃法(輪番射撃)は文禄・慶長の役において明軍と朝鮮軍に大きな刺激を与えることになり、17世紀の中国の軍事書にはこれらについての記述を残しています。

本書では、日本式の鉄砲や射撃方が東アジアにおいてどのように伝播したのか、そしてそれが東アジアの歴史においてどのような意味を持つのかを、様々な史料 を基に明らかにしていきます。まず、第1部では文禄・慶長の役に関係することを扱い、当時、明軍も様々な種類の下記を備えていたものの、日本側の鉄砲や射 撃術を前に相当苦戦し、それゆえに日本兵を捕虜にすると彼らを軍事的に利用しようとしたことが窺えます。

日本兵の捕虜の扱いとしては、北方の軍事拠点における対モンゴル・対女真戦線に投入したり、明の諸将の家丁とされて反乱鎮圧や北方防衛のために投入される ことがおおいのですが、王朝儀礼のために皇帝に献納されて処刑された者もいたことが明らかになっています。中国側史料を見ると、島津義弘が戦死して首を取 られたことになっていたり、大将格の武将をでっちあげるなど、様々な偽装が施したりまでして、明朝としては皇帝中心の秩序が守られたと言うことにしたかっ たのでしょう。

第2部では火器普及についてあつかいます。国家による厳格な統制がしかれた初期、国家主導での導入が図られる17世紀の間の時期、火器の普及は武官の個人 的結びつきにより火器が普及したケースがあったことを示し、さらに明の諸将が家丁という形で捕虜とした日本兵を組み込み、火器を製造し、運用していたこと が述べられています。しかし家丁を維持する費用は国から支給されるものに頼っていたようで、解任されるとそれがもらえなくなり、子飼いの軍団の維持が困難 になるというようです。このやり方は武官への統制という点ではうまくいったようですが、軍事力の強化という点では問題があったと言えます。

第2部の最後で扱われている政府主導による火器強化についても、火器仕様の専門機関である京営による火器導入は成果はあまり上がらず、旧式の性能の低い火 器が未だに使われていた様子が窺えます。一方、官僚たちによる新式火器導入も色々と圧力を受け、成果は芳しいものではありませんでした。そして、政府主導 の火器導入に際して16~17世紀型の火器導入(武将と家丁の私的関係によるもの)が障害となっていた事も示されます。こんな具合で新式火器導入がうまく いかなかった明に対し、女真族のほうは積極的に新型火器を導入して軍事力を強化していったと言うことが最後に述べられています。

新型火器の普及、それに伴う軍備の強化・変革は朝鮮でも進んでいたことは、本書以外の書籍でも時々触れられています(サルフの戦いでは朝鮮に鉄砲隊などの 援軍を要請しています)。しかし明においてどのような形で新式火器が導入されていったのかと言うことを扱っている本は少ないようです。一部の武将(文禄・ 朝鮮の役に関わった武将を2人を取り上げています)のことをすべてに適用して語ることはできないとは思いますが、明における火器導入の一端を知ることがで き、さらに明という王朝の統治体制についても色々と考えさせられる本であると思います。

また、本書では文禄・慶長の役をきっかけとした火器の導入のあり方を書いているのですが、様々な家丁を抱え多民族混成軍となっている明の将軍の軍隊、文 禄・慶長の役において日本、朝鮮、明を行き交い交渉や謀略に関わる人がいたことなどなど、16世紀から17世紀の流動的な東アジアの状況が窺えます。軍事 を通じて東アジア世界のあり方を描いた好著だと思います。