まずはこの辺は読んでみよう

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荷見守義「永楽帝」山川出版社(世界史リブレット人)

永楽帝というと甥の建文帝から帝位を簒奪する「靖難の役」、モンゴルへの5回の親征、鄭和の南海大遠征、北京遷都といった大きな出来事がたびたび取り上げ られます。また、過去に永楽帝についての優れた伝記も幾つか出ています。そのなかで、本書は档案(公文書)の研究を本に明らかにされた成果をもとにした永 楽帝の伝記であるとを売りにしています。構成としては、洪武帝時代のこと、燕王の台頭と建文帝による削藩、靖難の役、皇帝即位後の政権運営(内政・対外政 策)、といった順番で永楽帝の生涯を辿っていきます。

興味深い点を触れていくと、洪武帝は一族の者を王として封じ、藩屏として王朝の支えにしたり辺境防衛にあたらせたという話は高校世界史などでもよく出てく る話ですが、それがどのように行われているのかについても簡潔にまとめられています。藩王は旗印のような存在であり、彼ら自身は護衛兵しかもたぬ存在で (ちなみに、燕王(のちの永楽帝)の護衛兵はそれほど多くなく、そこから北西の諸王とくらべ重要度は低かったという見解を導きだしています)、あくまで軍 は皇帝の管理下にあり、遠征の際に動員され、歴戦の将軍や五軍都督府のサポートを受けて藩王たちは遠征を行っていたということがまとめられています。

明の藩王は王府はもつが土地や人民を支配しているわけではなく、国家統治そのものは皇帝と官僚がおこなうものですが、軍事に関してもそのあたりが徹底され ていたことがわかります。また、洪武帝晩年の皇明祖訓でも、皇帝の命令がなければ藩王は兵を動かせないこと、燕王がたびたび洪武帝知性末期に遠征している のも、あくまで国軍の指揮権を作戦時に与えられているだけであるということを指摘しています(藩王の指揮権については強大と見る見解もあるようですが)。

また、皇太子が死去した後、洪武帝が燕王を後継者に熱望していたが他の兄弟との兼ね合いで諦めたという話は永楽帝時代の基礎資料となる明実録が大幅に手が 加わっており扱いが難しいものであり、信用できないのかと思いきや、実は明実録稿本にも現れ、それは洪武帝の起居注に基づくものであり、信憑性は高いとい うことも指摘されています。この辺りは档案研究の成果というところなのでしょう。

そして、永楽帝というと靖難の役による帝位簒奪はやはり触れなくてはいけないことですが、これについては、燕王、建文帝、どちらも全国各地に動員をかけて おり、決して南北対立とは言えないこと、燕王側にモンゴル将兵が多かったと言われることもあるが、決してそうではないこと(そもそも明軍自体がモンゴルか ら帰順した兵を多く含む)、そして永楽帝側について戦った軍を優遇する措置を取ったこと(衛所の再編もそれに基づく所がかなりあります)など興味深い事柄 がみられます。

その他、対モンゴルということでは今の北京はそれほど重要ではなく、もっと西の方(大原や西安)の方が重要でそれは洪武帝時代の秦王、晋王が燕王より多く 護衛を持っていたことからもわかるということ、北京遷都はたんに永楽帝のホームグラウンドに都を置こうとしただけということ、永楽帝政権運営は側近政治 (側近の密議で政策を練り、朝議で追認させ、六部で執行する)であったこと、宦官が外交面でかなり重用されていたこと(ただし反動で送られた先で狼藉に及 ぶものもいたとか)、国内・対外政策で従うものへの厚遇と逆らったものへの厳しい対応がみられること(このあたりを順逆の内政、外交という表現で章立てし ています)、モンゴルに5度も申請していますが制圧しようという意図はなかったこと、こうしたことが詰め込まれてまとめられています。

そして、永楽帝時代にはじまる内閣、宦官の重用、衛所制の改変はその後の明にも引き継がれて行ったことが指摘されています。確かに、この時代に明朝の新た な基礎が定められたということは言えそうです。どこまでが档案研究の成果なのかは、他の永楽帝の伝記とも読み比べてみないとわかりにくい所もありますが、 檀上寛「永楽帝」あたりも読み比べてみると色々と違いがわかるのかもしれません。