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岩﨑周一「マリア・テレジアとハプスブルク帝国」創元社

ハプスブルク君主国のマリア・テレジアというと世界史では18世紀中欧・東欧の歴史を語る際に欠かせない人物です。しかし、彼女の治世は単純化して示せる何かわかりやすい特徴があるかというとそういうものではないようです。改革を進める一方で保守的なところもあり、柔軟なように見えて極めて強情な振る舞いもありと言った具合に、こうだとわかりやすく決められるタイプではなさそうです。

本書はそんなマリア・テレジアの生涯を軸に据え、彼女が生きた時代の社会や政治、文化について、彼女を支えた政治家や彼女の家族、そしてこの時代に生きた様々な文化人の群像にふれながら描き出していきます。

本書を通じ、彼女が統治した国家については「ハプスブルク君主国」という表記が一貫して用いられています(タイトルでは帝国ですが、そのあたりは本文でも断り書きがあります)。そもそも彼女は事実上「女帝」であっても神聖ローマ皇帝には即位しておらず、ハプスブルク家の領土を構成する様々な国家の君主(ハンガリーチェコなど多くの国を含みます)としてまとめあげていたということを考えると、「君主国」という表記が妥当だろうということでしょう。広大な領土を各地域ごとに異なる仕組みを用いつつ統治する「複合君主政国家」、それがハプスブルク君主国でした。

ハプスブルク家というと神聖ローマ皇帝位を15世紀以降は保持し続けてきましたが、彼女自身は皇帝とならず夫が皇帝となります。神聖ローマ帝国との距離の取り方、ハプスブルク君主国の支配者として神聖ローマ皇帝であるフランツ1世との関係構築をみるとなかなか難しいものがあったようです。彼女は皇后として戴冠されることを拒み、あくまで自立した君主として振る舞い己の尊厳の保持にこだわったようです。このような状況では権力構造上色々と軋みが生じてもおかしくないところですが、彼女が基本的に君主国統治に際しては主導権を握っているようすが伺えます。

マリア・テレジアのもとで行われた諸改革について頁をかなりさいています。彼女はあくまで身分秩序は守るべきものであると考え、国家教会主義をとりつつ(故にイエズス会を解散に追いやる)カトリック信仰にこだわり、宗教的寛容を認めず反ユダヤ主義的な考えすらもつ、極めて保守的な面もありますが、教育の整備や軍制の整備、行政改革などが進められていきました。ただし複合君主政国家ゆえに支配領域全土で同じ政策が推進されたわけではなく、また支配のあり方(中央集権か地方分権か)で路線対立も生じるなどの困難も見られました。

さらに、フランツ1世が死去すると息子ヨーゼフ2世との共同統治体制にはいり、性急な改革を求めるヨーゼフとの間で路線の違いが鮮明になっていきます。政治路線をめぐる両者の対立は結局解消しきれずに終わりますが、見解の違う両者のせめぎ合いの中で改革が進められ、かつてとは違う姿の帝国となっていったと言えそうです。この辺りの様子が詳しくまとめられていきます。

さらに国内政治だけでなく、この時代にヨーロッパ主要国が参戦してきた大規模な戦争(オーストリア継承戦争七年戦争)や外交革命のような大きな変化を描き出していますし、商工業や文化にも関心を向けて描いています。そのほか、マリア・テレジアの子どもたちについてもそれぞれのものの考え方や行動の様子が描かれています。このなかではマリー・アントワネットが子育てについては結構事細かに指示しているというのは意外でした。

そして、彼女が支配下の住民たちを正しい方向へ導く、そのためには人々を管理統制するという姿勢が、「お上」の支配に従順な「臣民文化」を作り上げることに大いに影響したということは言えそうです。最後にマリア・テレジアの後世への受容の様子が描かれていますが、彼女の記念像奉納に出席したエリーザベトの辛辣なコメントをみると、性格的に対照的な彼女ならそういうだろうなという気もします。

マリア・テレジアの生涯をまとめつつ、彼女が生きた時代について読みやすくまとまっており、お勧めしたい一冊です。