まずはこの辺は読んでみよう

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ディーノ・ブッツァーティ(安家達也訳)「ブッツァーティのジロ帯同記 1949年、コッピ対バルタリのジロ・ディ・イタリアを追う」未知谷

ディーノ・ブッツァーティというと、なんとも不思議な幻想的な話を読んだ記憶があるイタリアの作家です。「神を見た犬」「タタール人の砂漠」など、ここで感想を書いていたような記憶もあります(なかったらごめんなさい)。そんなブッツァーティが第2次大戦終結から間もない1949年、ジロ・ディ・イタリアコッリエーレ・デッラ・セーラ紙の記者として帯同取材して記事を書いてたというのが本書です。

毎年5月、イタリア全土を舞台として行われるジロ・デ・イタリア(本書表紙ではジロ・ディ・イタリア。なお、最近はスタート地点が国外ということもある)、山岳ステージ、平坦ステージ、タイムトライアル等様々なステージで展開されます。シチリア島から始まり、イタリア半島を南から北へとあがり最終ゴールを目指すその過程はかなりハードなものです。

この過酷なロードレースを新聞記者としてブッツァーティが帯同して取材し、新聞に掲載していた記事ということなのですが、読んでいると、いわゆるスポーツのレポートとは全く異質な内容となっています。

ヤギやオリーブの古木、そしてエトナ山が久し振りに彼らのいる場所にステージが設定された大会についてかたりあい、戦争で破壊されたモンテカッシーノでは米兵も独兵も関係なく亡霊達がジロをみる、こうした幻想的な話が紡がれた章もあれば、エースとそれを支えるアシスト役の扱いの違いや大会の過酷さを感じさせる場面を描く章、大会が始まる前、まだ疲労により夢見ることもなくひたすら眠る状態になる前、夢の中で自分がトップに立っているアシスト役の選手の章もある、このように様々な話が盛りこまれています。

主な筋となるのは、当時のイタリアのトップレーサーであるバルタリとコッピの戦いだと思います。若きチャンピオン、コッピがかつてのチャンピオンである老いたバルタリを打ち負かしていく、強者にも何れ訪れる衰えと敗北の時が描かれています。アキレウスヘクトルの戦いにも準えて描かれているコッピとバルタリですが、ブッツァーティはこの両者のうちバルタリにかなり肩入れしながら老いた英雄の退場を描いています(なお実際にはバルタリはそのあともトップレベルのレーサーとして活躍していたようです)。

新聞記者として帯同し,取材しながら記事を書いているので、当然選手にも色々と話は聞いていると思われます。しかしあえてそういう場面は排しながら夢幻のような物語が展開されています。唯一終盤のタイムスプリント前にバルタリと話をして、それを記事にしている箇所はありますが、下りが怖いというバルタリの老いを感じさせる会話の場面も非常に幻想的な物語が書かれています。

ブッツァーティの幻想的な小説のような記事の連作短編集という感じがする本ですが、彼の記事の独特さは途中新聞休刊日のため別の記者のレポートを載せた部分と見比べると違いは歴然としています。淡々と試合を伝えるのとは違い、取材した内容を彼の目を通し再構築し,表現し直した、そういう記事となっています。恐らく日本のスポーツ欄でこういう記事を書く人はいないでしょうし(そういう筆力のある人も恐らくいない)、読者の方もそれを読んで果たして理解できるかというと疑わしいですし、怒り出す人もいるやもしれません。

すでに便利な乗り物は色々とある時代で、自転車を必死になってこぐ必要はなく、何のためにこんな苦しい思いをして自転車を漕ぐのか、そんなものは非合理の極みではないかと思う人もいるかもしれない状況です。しかしなぜ自転車レースに人々がひきつけられるのか、一つ考えられることとしては、体一つで己の体力のみを使い急峻な山道をかけ、平地を疾走するという困難に挑むところなのではないかと思います。体一つでどの程度のことがなし得るのか、挑み続ける自転車選手のその姿に惹かれるのでしょう。単に自転車レースのレポートを書くのでなく、幻想的な筆致でこの過酷なレースに挑む選手とそれを取り巻く人々を描き、そこから困難に耐え、それに打ち勝とうとする人間の偉大な姿が現れてくる、そんな本だと思いながら読みました。