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根津由喜夫「聖デメトリオスは我らとともにあり 中世バルカンにおける「聖性」をめぐる戦い」山川出版社

キリスト教世界の聖人の一人、聖デメトリオスは4世紀に殉教したとされますが、現存する彼の殉教譚は最も古いものでも8世紀のものであり、実在はかなり怪しい聖人です。しかしテサロニケの守護聖人として崇められるようになり、疫病や外敵の襲来に際し聖デメトリオスがテサロニケの街を救ったという話が語り継がれるようになります。その一方で、この街が敵の襲撃や略奪を受けたことに関しては、テサロニケの人々が罪を犯し、それゆえに聖人が罰をあたえているととらえられています。またビザンツ帝国の軍人や皇帝も聖デメトリオスの加護をもとめたこともしられています。

そんな聖デメトリオスが12世紀末頃より、バルカン半島における覇権抗争のなかでにわかに重要性をたかめていきます。本書は12世紀末以降、聖デメトリオスがブルガリア第二王国独立のシンボルとして使われた後、聖デメトリオスとバルカン半島で覇を競った諸勢力のかかわりを通じ、中世のバルカン半島の歴史を描き出していきます。

聖デメトリオスがテサロニケを離れタルノヴォに遷御したと主張する勢力がブルガリア第二王国独立を成し遂げる一方、テサロニケを攻囲したカロヤン王はまさにそのデメトリオスにより誅殺されたという伝説がつくられるような死を遂げ、その後イヴァン・アセン2世の時代には聖ペータルや聖ペトカが重要視され、デメトリオスは半分ブルガリア人であるということにして取り込みを図ったように崇敬対象ではあるが、かつてのように何がなんでもブルガリアに持ってこようとするようなことはなく、一定の距離感が感じられる扱いになっています。

本書では、聖デメトリオス、テサロニケと関わった、ブルガリア以外の勢力についても取り上げられています。エペイロスから瞬く間に領土を広げ、一時はテサロニケも支配下に置いて「皇帝」に即位し、コンスタンティノープル攻略をめざす力をもちながら一度の敗戦によりその「帝国」が瓦解するという起伏に富んだ生涯を送ったテオドロスの半生と、エペイロス専制公などの出現とニカイア帝国による帝国復活までの流れとテサロニケおよび聖デメトリオスの関係もなかなか興味深いものがありました。

さらに、セルビアと聖デメトリオス、テサロニケの関係についても考察を行っています。バルカン半島で勢力を強め、やがて独立していったセルビアにとってもテサロニケは重要な街であり、この街を攻めるわけではないが自分の影響下に置いています。ブルガリアビザンツの文化を取り込んではいましたが、セルビアの場合はそれがより徹底していたような感じも見受けられます。ビザンツの文化や政治制度などを他のスラヴ系民族と比べて急速かつ積極的に取り込んだセルビア人はビザンツの多くの聖人たちも崇敬対象として取り込みます。その中には聖デメトリオスも含まれますが、テサロニケに座す聖デメトリオスはそこにいるからこそ尊い「自分たちの聖人」となっていったようです。

そして、コンスタンティノープル滞在経験を持ち、ビザンツの政治理念や文化に感化され、「ローマ皇帝」たらんとしたとも言われるセルビアの最盛期をもたらした国王ステファン・ドゥシャンもテサロニケを武力攻撃しようとはしませんでしたが、これについてもカロヤンの二の舞になることを避けつつ、テサロニケを「精神的な都」として位置付けつつ自らの保護下においていたとみているようです。

そして、セルビアの覇権確率は聖デメトリオスの図像表現に大きな影響をあたえたのではないかと著者は考えているようです。14世紀前半に建設されたデチャニ修道院の礼拝堂に描かれた聖デメトリオスがカロヤン王を誅殺する場面は現時点で最古の作例とされています。本書ではカロヤン誅殺の伝説を単に図像化したものではなく、当時の政治情勢との関連から読み解こうとしています。当時勢力を強めるセルビアブルガリアが衝突したヴェルビュズドの戦いはセルビアの勝利に終わり、バルカン半島におけるセルビアの覇権を決定づけるものでしたが、このような政治情勢が聖デメトリオスが野戦で騎馬のカロヤン王を倒すような表現に影響したのではないかということで、興味深い考察ではあると思います。

このような状況が一変するのはオスマン帝国の時代だったようです。ブルガリアセルビアもみなオスマン領となり、バルカン地域の正教会コンスタンティノープルのもとで一元化され、民族的差異がうすれ、むしろ一体感を強めていった時代であり、それが聖デメトリオス信仰、図像表現の広がりにも影響を与えることになったとみています。

個人的には、他ならぬブルガリア王を誅殺したテサロニケの守護聖人ブルガリア人から崇敬されるというのも不思議な感じがします。罪と罰、悔悛と赦しのような考え方がキリスト教関連の話においてしばしば見られますが(イーゴリ公の遠征の話とか)、カロヤン誅殺もそういった文脈で捉えるということはできるのでしょうか。テサロニケを攻めるという「罪」を犯した故に聖人に誅殺された王の存在が、その後のブルガリアとテサロニキや聖デメトリオスとの関わりに一定の影響を与えたのかもしれないと思いながら読んでいましたが、はたしてどうなのかはわかりません。

一つの聖人の図像をきっかけとして、バルカン半島を舞台とした諸勢力の角逐と宗教的な情念を描き出した一冊と言えるでしょう。日本人にはあまり馴染みのない地域と時代の歴史ではありますが、ある同じものを自分たちのシンボルとして利用しようとし、対立するという関係は現代においても見られることですし、あるシンボルを利用することの政治的意味について考えてみるきっかけとして、読んで見てはどうでしょうか。