まずはこの辺は読んでみよう

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吉川忠夫「顔真卿伝」法藏館

顔真卿というと、世界史の授業で唐の歴史を扱うと、書家として文化史分野で必ず名前があがる人物です。顔真卿といえば書道、ということで、彼の活動の中で書に関することだけがピックアップされ、あとは安史の乱に際し、義勇兵を募って戦ったということが軽く触れられる程度です。

たしかに顔真卿というとその書が評価されるというのが現状ですし、2019年の2月24日まで上野の東京国立博物館にて顔真卿展が開かれ、彼の書がいくつも紹介され、書の様式などについては色々と解説がなされています。

しかし、本書をよむと、書は顔真卿の関わったことのごく一部を表しているに過ぎず、彼を書家という一分野に特化した人間として扱うことは適切ではないということがわかると思います。本書の構成としては、まず最初に顔氏一族の来歴をまとめ、そのあとに続けて顔真卿の生涯を描いていき、最後に後世における評価などがまとめられています。

顔真卿以前の顔氏というと、「顔氏家訓」を残した顔之推の名がまずあげられますが、それ以外の顔氏の人々、さらに顔氏と関係を持った人々や彼らの生きた時代とそこでの振る舞いが本書では扱われています。顔真卿というと安史の乱での気骨ある対応が知られていますが、彼の先祖たちおよび彼の親族をみても節義を重んじ、それに反する生き方は断固として拒否する、それがたとえ自分の死を招くとしても決して変えない姿勢をとってきたことが書き記されています。

顔真卿自身も、若くして中央でエリート街道をまっしぐらに歩んでいくのかと思いきや、楊国忠と衝突して地方官に飛ばされ、安史の乱義勇兵を募って抵抗した後も、中央政府に戻ったかと思えば時の権臣におもねる生き方を選ばなかったが故に地方に飛ばされています。そして最後は反乱勢力の説得というほぼ成功の可能性がない危険な任務をあえて引き受け、節義を重んじたがゆえに死に至るという生き方をしています。

こうした生涯の合間にも、平穏に過ごせた時期はあり、道教や仏教への傾倒(この点に関して、宋代に欧陽脩から彼のマイナスポイントのように言われたりもします)、学問を家業とする顔氏の家学の一つである文字学の業績と、それに関わった文人たちとの交流(その中には茶で有名な陸羽もいます)についても、顔真卿が書き残した碑などをもとに描かれています。顔家は書芸術にも優れた家でありましたが、書芸術だけでなく、経書史書を読み研究することも家業であり、顔之推は「書をもって自らに命づくることなかれ(書を表看板とするようなことがあってはならぬ)」と訓戒を垂れた話も伝わっています。

顔真卿について『旧唐書』と『新唐書』のいずれにおいても書に関する記述は少なく、彼の生き様については色々描かれている一方、彼の書芸術が高く評価されるようになる宋代においても彼の生き様とセットで評価されているということが何を意味するのか、東アジアにおける書芸術をの評価という点から見てもなかなか興味深いものがあります。書芸術は顔氏の家業のあくまで一つであり、その教えが脈々と受け継がれる中、現代のように書芸術だけが評価されるというのは顔真卿にとって望ましくないことだろうと思います。

口ではいくらでも勇ましいことは言えますが、それを実際に行動に移すことは極めて難しいことです。それをを日々感じながら生きている人が多いでしょう(私もそんなに偉そうなことを言える身ではありません。人生、なかなかしんどいですね)。瑯琊の顔氏という名家の一族の中で自分の祖先たちがどのように生きたのか、どう生きるべきかを教えられるなかで、彼自身は書芸術だけでなくいろいろな分野で成果を上げる均整の取れた人間を理想としていたのではないかと思われます。

現代では、ある特定の分野に秀でた人物が重視され、それを伸ばしていこうという傾向がいろいろな場面で見て取れます。「異能の者」を育てようという方向性は面白いとは思うのですが、自分の専門外のことに関しては極めて稚拙な言動を展開し、さらに自分をすべての尺度として物事を判断し、自分が理解できないものを無価値と断じる様も目に付きます。そういう時代だからこそ、顔真卿という人の生き様を見つめ直すことに意味があるように思えてなりません。非常に読みやすい文章でまとめられており、面白く読めました。