まずはこの辺は読んでみよう

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トーマス・セドラチェク(村井章子訳)「善と悪の経済学」東洋経済新報社

経済学、というと数式だらけというイメージがなぜか浮かんできますし、実際に経済学関係の本を見ると、これは数学や物理の本ではないかと言いたくなるもの もあります。経済的合理性を追求し、合理的判断を下すような人間モデルを設定して考えていくのが主流を占めているとも言われている経済学ですが(最も、最 近では行動経済学のようなものもあります)、はたして価値中立的・客観的で自然科学に近い実証科学なのか?

本書では経済学は決して価値中立的な学問ではなく、そのような方向を目指すことではなく、人々に対し価値判断を提供できる学問であるべきだという姿勢を とっています。価値中立的な姿勢を装いつつ、実は極端に快楽追求・効率至上主義的な経済学を批判し、では経済学はどのような学問であるべきなのか。それを 考えていくにあたり、本書では過去の人々の思想や宗教に経済的活動の痕跡を探り、そこから考えていこうとします。

扱う思想や文献としてはギルガメシュ叙事詩から始まり、旧約聖書、ギリシア哲学(クセノフォン、プラトンアリストテレスストア派エピクロス派)、キ リスト教(新約聖書トマス・アクィナスの著作)、デカルト、マンデヴィル、アダム・スミスといったことが扱われていきます。本書において、かつては経済 学的な事柄は倫理学と深く結びついていたことも示されていきます。こうした著作の研究を通じ、歴史上の思想を「禁欲的・善至上主義」対「快楽追求的・効率 至上主義」という一つの軸が存在することを示していきます。

かつては経済学が倫理学と密接に結びついていたのが、古典派経済学の出現あたりからその辺りがだんだんと離れ始め、主流派経済学ではそういったものはすっかり切り離されたように見えますが、その辺りの流れは経済的活動の位置付けと結構関係あるのではないかと思います。

古代ギリシア史だと19世紀末、20世紀初頭にビューヒャー・マイヤー論争以降、近代的性格を強調する人とそうでない人がいたり、20世紀後半になると古 代ギリシアの経済活動は社会の中に埋め込まれ、自立した人間活動の領域とはなっていなかったことが指摘され、最近では考古学的成果の増大により経済活動の 再考もあるようですが、概ね社会において経済は自立した活動分野ではなかったという具合にとらえられています。

古代ギリシアのような社会では経済活動も倫理学的なものの影響は強く受けやすい状況にあったでしょうし、その後の時代についても古典派経済学が成立するよ うな時代まで経済活動が社会から自立・分離するまでには至らない状態が続いていたのかなとも思われます。経済活動が社会の中で自立した一領域であると認識 されたとき、独自の一分野としての経済を解明すべく、客観的・価値中立的な真理探究の学問としての経済学を作っていこうとしたが、それと同時に倫理的な縛 りからも抜けていったのでしょう。

21世紀に入り、価値中立的な客観科学として経済学を演じ続けるのではなく、このあたりでひと段落つけてそもそものあり方を再考し、経済学の今後のあり方を考えていこうとしている本ではないかと感じました。

本書で扱われているのは、古代から近現代までの西洋の歴史が中心ですが、経済活動、経済思想を軸に据えて辿っていき、その上で経済学は何を目的とするべき か、現在の経済学の状況を批判しながら考えていこうとします。幸福の追求の手段としての経済学はどうあるべきなのか、経済学と倫理学の結びつきはどの程度 まであるべきなのか、本書では決定版と言える論が提示されているわけではないようですが、かなり刺激的な本ではないかと思います。西洋だけでなく、東洋も 含めた形で経済的思想について考えてみるという試みに誰か挑戦してみてほしいなと読んでいて思いました。