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ロナルド・トビ「鎖国という外交」小学館

江戸時代は決して「鎖国」ではないということは最近の研究ではほぼ常識になってきています。長崎、松前対馬、薩摩という4つの玄関口を通じて外から入ってくる物や人、情報を江戸幕府がおさえるためにとった体制が、19世紀に「鎖国」という言葉で表されるようになり、現在に至っています。単に国を閉ざすのではなく、幕府が主体的に対外関係をコントロールしようとした事が後に「鎖国」とよばれるようになったのが実情のようです。

 

本書ではこの江戸時代の対外関係について、朝鮮通信使を中心に東アジア世界との関係を述べていくという形で話を進めていきます。朝鮮通信使江戸幕府にとり大名や庶民に対して幕府の意向を示す場となっていたこと(たとえば日光東照宮を参拝させ、これを幕府の威光に従ってという形で見せていく)を始めにまとめています。そして、朝鮮通信使に関しては、本書の最後で触れられますが、この過程で作られていった意識が明治時代の征韓論につながっていくというような結論に至ります。

 

4つの玄関口を通じて通信・通商の国4つ(朝鮮、琉球、オランダ、中国)とのみ交流を持つという江戸幕府の外交姿勢をみていると、あまり外のことに積極的に関わりを持とうとしなかったような印象もありますが、江戸幕府の海外情報収集はかなり積極的であり、明清交代期には度々明の遺臣から救援要請があり一時は軍事遠征も考えていたと言うことや、清と台湾の関係にも注意を払っていて遷界令や展界令についても情報をつかんでおりそこから貞享令をだして対中国貿易をコントロールしようとした(結果はさておき…)といったことからは、国を閉ざして外に対し無関心になった訳ではないということがわかると思います。

 

また、徳川吉宗の時代に漢訳洋書輸入の規制を緩和したことについても貿易との関係から、「鎖国」していた時代の日本が輸入依存体質であり、輸入品をなんとか自国内で生産できるようにして銀や銅の流出を抑えようという意図から行われたというところも注目すべき点でしょう。

 

朝鮮通信使の事柄以外にも、鎖国という言葉が登場するのが19世紀初めであったことや、“正しい”過去を定め、それを元に今と未来を構築していく事において松平定信が重要な役割を果たしていたこと(鎖国が祖法であるというのも定信の時代にできたらしい)、絵画に描かれた異人の描写(フリル、ひげ)のはなしや霊峰富士は、中国東北部豆満江河口や、朝鮮半島江原道からも見えると考えられていたという話など、なかなか興味深い話題が取り上げられています。

 

江戸時代の対外関係について、現在通説になっていることを読みやすくまとめており、世界と日本のつながりについても色々と意識させられる(18世紀後半の寒冷期に入る中、毛皮の需要が増大し、それゆえにロシアが日本に接近してきたり…)、そんな本です。