まずはこの辺は読んでみよう

しがない読書感想ブログです。teacupが終了したため移転することと相成りました。

イアン・ウォーシントン(森谷公俊訳)「プトレマイオス一世 エジプト王になったマケドニア人」白水社

アレクサンドロス関係の史料として真っ先にタイトルが挙がるアッリアノスの東征記、その序文にはこの様なことが書かれています。

「わたしはピリッポスの子アレクサンドロスの事績を記録するにあたってまず、ラゴスの子プトレマイオスとアリストブロスの子アリストブロスとが、ともにおなじことを書きのこしているばあいには、それをまったく真実のこととして書きとめることにする。」(岩波文庫アレクサンドロス大王東征記」より)

この後、この二人の記録を信用する理由が書かれていますが、大王の死後記録を書き始めた彼らには曲筆の必要が無いことに加え、プトレマイオスについては王の側近としてともに遠征したこと、王者として虚言を弄することを不名誉としたことをあげています。

しかしながら、現代の歴史学においてはプトレマイオスの記述には彼なりの「曲筆」があることが指摘されて久しいところがあります。本書ではそんなプトレマイオスについて、彼の経歴やエジプトの支配者にのし上がる過程、彼の野心とエジプト統治のあり方をまとめ、彼の残した大王についての記録の性格にも言及していきます。

まず、大王存命中、プトレマイオスは側近護衛官となりますが東征中に他の護衛官(ヘファイスティオンら)のように大きな任務を任され軍を率いるという経験はみられません。彼が活躍してる記述が出てくるのはソグディアナでの活動やインドでの活動など東征後半のことですが、その活躍の記述も誇張ではないかと言われている始末です。他の諸将が東征中に華々しく活躍しているのとくらべると非常に地味でめだたない人物として彼が描かれています。

そんな彼が一気に存在感を増すのは大王死後、アレクサンドロスの後を継ぐ者をどうするか,帝国の支配体制をどうするかを巡り諸将が紛糾しているときでした。彼が帝国の統治体制について王の存在をそれ程重んじず集団指導体制のような形を志向する当時としてはかなり強烈な意見を吐き、これ自体は結局否定されるのですが、その後の領地分割でエジプトをしっかり確保します。彼の活躍について史料の記述をどこまで信用して良いのか気になるところではありますが、補佐役付きとはいえ(ただし赴任してから短期間で補佐役を排除しています)エジプトを任されたところを見ると、後継者諸将たちも彼が言いにくいことを言ったことをそれなりに評価したのかも知れません。

そして大王死後間もない時期より後継者戦争がはじまり、40年ほどの期間にわたり後継諸将同士の苛烈な争いが展開されることになります。この間プトレマイオスは争いに加わることもありますが微妙に距離を取り、エジプトの支配の確立とさらなる勢力拡大に力を注いでいます。プトレマイオス後継者戦争での立ち位置について、彼はエジプトの支配にのみ関心があったようにも言われています。しかし本書など近年の動向では彼はそれだけにとどまらず地中海・エーゲ海ギリシア、そしてマケドニア本土に対しても野心を持つ、他の諸将同様の覇権志向の持ち主である事が示されています。経歴上大軍を率いた経験が無いこともあってか、決して戦上手という感じはしないのですが、とるものはしっかり確保していく、本当に厳しいとなると手を引く,そのような感じで動いているように見えます。

彼の記録した大王伝については以前より自分のライバルとなった武将についてはかなり厳しく失態をとがめたり(特にペルディッカス)、あるいは記述をほとんどしていなかったり(アンティゴノスやセレウコス)、逆に自分の活躍を誇張しているという指摘はありました。本書ではそれに加え、プトレマイオスが大王の側近護衛官を務めながら、「護衛官」としての失態とも言うべき事態について沈黙していることがあると指摘します。一つは東征中の宴会の席で発生したクレイトス刺殺事件、もう一つはインドにおいて大王が瀕死の重傷を負った際の出来事です。側近護衛官という立場上これらの場に彼がいたことは間違いないのですが、本書ではこのあたりについて意図的に書いていないことがあると指摘しています。ライバルを厳しく批判しつつ自分の失態は隠蔽し功績を誇張する、書かれた時期などを考えるとそのような対応は十分に考えられることではあります。

本書で描かれたプトレマイオス像としては、決して目立った動きをするわけではないが周囲の状況やその場で起きていることをつぶさに観察し、そこで学んだことを自分のために役立てる(エジプト統治の確立にあたってはそれが大きかったように感じます)、目立たないように振る舞いつつ,ここぞという所では一気に勝負をかける、しかし深追いはしない,そう言うタイプの人物のように見えます。華々しい成果、歴史的な大事業をなすタイプかというと少し違うところもありますが非常に堅実なリーダーというところでしょうか。

そして本書は日本語で読める後継者戦争を扱った著作として貴重です。アレクサンドロスのことを扱った本は訳者の森谷先生や澤田先生が最近色々と本を書いて下さっていますし、マケドニア史についても澤田先生の大著があります(なお今年3月には「古代マケドニア全史」という本が一般書で出る予定です)。しかしながら大王死後の歴史について、少し古いヘレニズム時代史の本であったり、最近ではハニオティス「アレクサンドロス以後」でとりあげられることはあっても、ヘレニズム時代の一部として少し扱うくらいです。本書はプトレマイオスの動きに重点が置かれていますが、後継者戦争の展開についてかなりの文量があてられています。日本語で読める後継者戦争時代の本としてまずこれはお薦めしておきたいところです。

なお、本書の内容とはそれますが、アレクサンドロス研究で色々な著作を出している森谷先生があまたの後継者諸将のなかからプトレマイオスを扱った本の翻訳を選んだのは、プトレマイオスの「活躍」が目立つ地域は森谷先生が東征路の調査を行ったことがあるからなのかなと思いました(その時の調査旅行については大学リポジトリで読むことが出来ます。願わくばこの調査旅行の成果もイランの東征路研究同様に一冊の本にして出して欲しいと思います)。

そして、これも本書の内容と外れることではありますが、個人的にはこの本は「ヒストリエ」の予習本として是非読んで欲しいところです。歴史の本を読むとネタがばれるから嫌だという人もいるのですが、岩明先生が歴史の事柄として語られたことをそのまま漫画にするような人ではないことはあの漫画をこれまで読んできた人ならば非常によく分かっていると思います(ヘファイスティオンの設定とかびっくりしました)。この本で書かれている事柄をどう料理するのか、それを楽しみに漫画掲載の再開を待ちたいところです。