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氣賀澤保規 「則天武后」講談社(学術文庫)

中国の歴史上、権力を握り、それを思うがままに行使した女性は幾人かみられます。漢の高祖劉邦の妻だった呂后は宮廷で血なまぐさいエピソードは幾つかあるものの国は安定した状態をたもち、清末の西太后は清末の激動の時代におもうがままに力を振るいつつ、なんとか清朝を維持していったことが語られています。

しかし、彼女たちは皇太后という地位を利用して垂廉朝政をしくなど、あくまで皇帝の後見のような形で権力を握り、政治に関わっていました。しかし中国の歴史上唯一、皇帝のくらいに着いた女性がいました。それが本書であつかわれる則天武后です。

本書ではそんな則天武后について、まず唐王朝の成立から説き始め、唐太宗の貞観の治など唐初期の状況がわかりやすくまとめられています。なお、本書は以前白帝社から刊行されていた中国の歴史人物の伝記シリーズの一冊ですが、それが文庫に収められる際に、感業寺のくだりをさらにブラッシュアップしたものとなったようです(原著が手元にないので比較はできないのですが)。

通常、則天武后が高宗の宮廷に入るきっかけとして、太宗死後に彼女も含めた側室たちは皆出家させられ、感業寺で位牌を守っていた時に、たまたま高宗とであってそれから還俗し、妃となったというストーリーが語られています。しかし唐の太宗のような君主の位牌を祀る寺とされながら感業寺の所在はわかっていないし、そもそも中国の場合宗廟に祀られる以上、個別の菩提寺は作る意味がないなど、いろいろと都合が合わない、後宮の女性が皇帝死後に出家する習慣が存在したかも不確かということがあるようです。それに加えて、太宗の死の直後に、長安の寺額(寺の名)の移動がいくつも行われ、その中には武照の母方の実家に近い小寺に由緒正しい寺の寺額が移された事例もあるようです。

そして、こうしたことをもとに、著者は彼女が高宗の宮廷に入るまでの展開について、まず、そもそも2人は太宗の存命中(病床に臥せっている頃)にすでに深い仲となっていたこと、そして太宗死後にその過去を清算するために寺額を移した道徳寺に出家した形にした、しかし実際には母方の実家に武照は身を寄せており、密かに逢瀬を重ね、子供を身ごもり(生まれるのは652年頃とされる)、密かに宮中に移され、ついに654年に宮中に再登場する、という流れを考えていきます。

彼ら2人の関係は儒教的価値観からみては人倫にもとるものであり、それゆえに感業寺のくだりがのちに則天武后周辺から作られて流されて、現在に至っているということのようです。

今回、感業寺のくだりはかなり変えられ、その部分を確認する都いう読み方も可能ですが、本書では彼女の生涯に関わった様々な人物についても描き出されており、苦難の中でも節義を通した「ディー判事」のモデル狄仁傑、則天武后に仕えた怪僧薛懐義などの人物たちも詳しく書かれています。そしてなにより、強烈な個性を持ち、その後の唐の歴史にも大きな影響を与えることになった則天武后の生涯を、物語っぽいスタイルでわかりやすく描き出しています。彼女の生涯をたどりつつ、唐初期の歴史についてもまとまっているので、お薦めです。