まずはこの辺は読んでみよう

しがない読書感想ブログです。teacupが終了したため移転することと相成りました。

カズオ・イシグロ(土屋政雄訳)「忘れられた巨人」早川書房

魔法や龍といった不思議な物が存在し、ブリトン人がサクソン人に取って代わられつつある時代のイングランド、アクセルとベアトリス2人の老夫婦がブリトン人の集落で暮らしていました。そんな彼らがある日、遠くの村にいる息子に会いに旅に出ることになります。

道中で王の命令を受けて旅をするサクソン人の戦士ウィスタンとサクソン人の少年エドウィン、円卓の騎士の一人でアーサー王の甥ガウェインとも出会いなが ら、彼らの旅は続くのですが、その過程で当初分からなかったことが次々と判明していきます。いや、判明すると言うよりも思い出されると言うべきでしょう か。実は、この世界では遠い昔のことからごく最近のことまで、人間の記憶があやふやになり忘れてしまっているという状態にあります。はたして記憶はもどる のか、そしてアクセルとベアトリスは息子の村に着けるのか。

語り手が外に設定されている点は過去のイシグロ作品とちょっと違う点かなと思います。昔読んだ作品では、一人称で単一の視点で物事が語られていく話が多 かった記憶があります。しかし今回はおおむね三人称で語られいます(アクセル、ベアトリス等々をはっきりさせています)。また、章によって語り手がいろい ろと替わるところもあります。

従来は「信頼できない語り手」による一人称で過去の出来事の曖昧な記憶が語られ、後半・終盤になって初めの頃の曖昧な過去が鮮明になっていくという展開を とっていたところに、今回三人称で語る、視点人物もたびたび替わることでより複雑さを増しているように感じました。間に挟まれた回想もそうした複雑さを増 す要因となっているとも思います。

この世界で人々の記憶が失われているのは龍が作り出す霧のせいであり、それを止めるために龍を倒しに行くという戦士ウィスタンがいたり、悪鬼や龍、小妖精 など異界のクリーチャーが登場する展開はファンタジー小説のようです。しかし、龍退治のファンタジーとしてはあまりすっきりしない展開となるこの話のメイ ンテーマはそうしたファンタジーの要素ではなく、個人、そして集団の「記憶」だと思います。

旅を続ける過程でよみがえってくる記憶からはブリトン人とサクソン人の戦いの歴史、つかの間の平和、アクセルとベアトリスの息子、そしてサクソン人集落で の出来事やアクセル、ウィスタン、ガウェインの関係などなどがあります。こうした記憶が龍の霧によってあやふやな状態にされているのですが、ウィスタンが 龍退治という旅の目的を達成したとき、果たして何が起きるのか、記憶がよみがえることはよいのか悪いのか。

過去の作品でも人間の記憶や歴史といった問題を扱ってきた作家さんですが、今作は個人の記憶だけでなく、集団の記憶といったことも扱われているようです。 終盤になってウィスタンがエドウィンに語って聞かせることはまさにサクソン人の集団の記憶に関することでしょう。この記憶を継承したエドウィンが果たして どのような人生を歩んでいくことになるのかが気がかりでなりません。アクセルとベアトリスと過ごした時間と、サクソン人としての自分、それをどう両立させ ていくのでしょうか。

読み終わったときに、なんともいえないもの寂しい感じが残る一冊でした。