まずはこの辺は読んでみよう

しがない読書感想ブログです。teacupが終了したため移転することと相成りました。

小川剛生「足利義満 公武に君臨した室町将軍」中央公論新社(中公新書)

足利義満というと、日明貿易を巡る「屈辱外交」、皇位簒奪計画などなどによりあまり評判の良くない人物です。しかし、中世日本の政治史をみるなかで、彼の 存在感は極めて大きいということもまた否定できません。足利義満の朝廷での歩みはその後の足利将軍達もそれに年齢や日程も全く同じように歩んでいくことに なり、義満に反発した足利義持ですらそれには従わねばならなかったくらいです。

本書では、足利義満が単なる幕府の将軍という位置づけを越え、公家と武家の両方の勢力に君臨する支配者となっていったことを描いていきます。その際に、有 職故実や芸能といったことが取り上げられ、これらの物が政治の場面でも極めて重要な意味を持っていたと言うようなことが述べられていきます。

当時、北朝の朝廷は政務や儀式に対し意欲と仕組みはあるけれど、現実にはそれを執り行う力(財力など)がなく、何かと室町幕府を頼ろうとしていました。し かし義満以前の室町幕府が、朝廷がやるべき事(儀式など)への関わりが極めて消極的でした。そのあたりは鎌倉幕府の頃からあまり違いはなく、尊氏や義詮、 さらに義満が若い頃政務を取り仕切った細川頼之も鎌倉幕府以来の武家政権の対応を踏襲していました。

しかし、それが大きく変わり室町幕府の将軍が朝廷に深く関わっていくことになるのが義満の時代でした。朝廷のほうでも二条良基のように武家政権が朝廷の事 柄に積極的に関わることを求める人もいました。この二条良基ですが、武家から近衛大将を出そうとしたり義満にたいして積極的に故実を伝授しようとします。 煩瑣なことこのうえない朝廷の儀式や故実を身につけることは極めて大変であり、義満以前の人達であれば、尻込みして出てこなくなるところですが、義満は芸 事や有職故実を貪欲に身につけていこうとし、実際にそれに成功しています。

それはさておき、二条良基という人物、自分の妄想を書き連ねた「日記」を書いたり、当初は義満に故実をつたえるのは別の人間だったのに、それを押しのけて 自ら故実を伝授するなど、なかなか強烈な人物であると思います。しばしばスポーツの世界で「~は私が育てた」と威張る人がいますが、なんとなくそういう感 じがしないでもありません。また、義満も二条良基を利用しているところがあるのではないかと感じるところがありました。

義満というと皇位簒奪とかそういう話が良く出てきますが、そんなものは無理だしあり得ないことだったというのが著者の見解です。後小松天皇の後見として、 「治天の君」のような立場につけられたところから色々と勘違いし、人臣でありながら「太上天皇」の尊号を望む義満の要求を、義満の妻への女院号宣下や、息 子の義嗣を親王に準じて元服させることでかわそうとしていきます。はじめから人臣である義満に「太上天皇」など与えるつもりはなかったようです。

太上天皇の件に限らず、公家は義満に気に入られないと大変なことになるためおとなしく従っていたが、日記では義満のことを「大ザル」呼ばわりしています。 「心にもない甘言をもって不案内者を有頂天にさせ、蔭からひそかに嘲笑するーこれこそ公家の御家芸でなくて何であろう」と著者も書いていますが、まさにそ の通りですね。いかに故実をみにつけ、様々な芸能、教養をもち、圧倒的な力を持とうとも、所詮は義満は公家社会のよそ者、公家達はとりあえず自分達の社会 のしくみを維持するために適当に利用しただけということなのかもしれません。

本書では、義満という人物が室町時代の政治史においてどのような位置づけにあるのかを示していきます。一方で、関東や九州、地方の大名との関係については 彼以降の将軍達と同じように対応に苦労しており、そこは彼の限界だったのかなと思います。九州というと、今川了俊のことが良く出てきますが、彼についても 応永の乱の際に、あちこちで反乱を煽っていたことがしめされていきます。また、了俊を呼び出した際に大名を招集して同席させたのは、了俊をさらし者にする と言うより、おそわれるのではないかという恐怖からという推測をしています。義満の意外な小心さを表しているというと著者はみています。傲慢で尊大、享楽 的で気分屋、冗談や嫌味をよく言うといったことが義満の人柄として語られていますが、物事に対する貪欲さ・積極性というところはプラスの要素のような気が します。