まずはこの辺は読んでみよう

しがない読書感想ブログです。teacupが終了したため移転することと相成りました。

安彦良和「完全版 アレクサンドロス 世界帝国への夢」NHK出版

いまから7年ほど前の2003年、NHKで『文明の道』という番組が放送されていました。アレクサンドロスの東征からモンゴル帝国までのユーラシア大陸に おける文明の対立と交流をテーマにした番組でしたが、その関連書籍としてアレクサンドロスとクビライについては漫画版が出されていました(クビライのほう は、ちょっとこれはかなりまずいんじゃないかと思う内容でした…。義経ジンギスカン説がまさかNHKの本で出てくるとはね…)。

その後、アレクサンドロスについては、いくつか書き加えた完全版として新たに出されました。何がどう変わったのかを見て比べると、アレクサンドロスが即位する前の話を少し書き加えたという感じです。それ以外は旧ヴァージョンとは特に変わりはありません。

漫画の構成としては、語り手の回想という形で、アレクサンドロスの生涯が描かれていき、アレクサンドロスという一人の人間の強さと弱さの両面をうまくまと めている作品になっています。漫画とはいえ、元々が教養番組のコミカライズなので、突飛な設定(『ヒストリエ』のヘファイスティオンのようなものや、エウ メネスをスキタイ人にしたりするようなもの)は有りません(時々お遊びみたいなのは見られますが)。アレクサンドロスが死ぬ前にロクサネとの子どもが生ま れてしまっているところ以外は特に通説を弄ったという感じではないので、これを読むとアレクサンドロスの生涯について、大体分かるのではないでしょうか。

ディティールは色々と創作も入っているとおもいますが(個々人の台詞など)、ベースとしては、大牟田章「アレクサンドロス大王」や監修者の森谷公俊氏の意 見などをもとにストーリーを構築しているようです(ペルセポリス炎上のあたりは森谷先生、フィリッポス暗殺のあたりは大牟田先生といった感じ。なお、最初 のヴァージョンが出たときには「アレクサンドロスの征服と神話」はまだでていません)。

この作品で作者は語り手として、後にエジプトの支配者となる(そして、後にアッリアノスの東征記の元史料の一つとなる著作を書いた)プトレマイオスでも、 書記官として働いたエウメネスでも、彼の遠征の歴史を公式に記録する任務を負ったカリステネスでもなく、リュシマコスという一武将をあてています。リュシ マコスは後継者戦争の過程で、トラキアマケドニアの支配者となり、最後はセレウコスに敗れて戦死する人物ですが、彼の目からみたアレクサンドロスの姿が 描かれていきます。

彼を語り手に設定したのは、マケドニアのミエザで過去を回想するという形を取っているところを見ると、旧版を読んだ時にはアレクサンドロスの東征に従軍し た後継者諸将のなかで、彼だけがマケドニアに戻ってくることが出来たということも関係しているのかななどとも思いましたが、新版の後書きによると、「俗物 的な不細工さ」がアレクサンドロスの対極的存在とするにはふさわしかったためだとのことです。人並み外れた勇敢さ、疑い深さ等々をもちあわせ、何かしらの 情念の赴くがままに東征を続けたアレクサンドロスの強さと弱さの両面を描き出すに辺り、“普通人”のリュシマコスを対極にすえ、彼の視点から描くことに よって、よりはっきりと描き出すことに成功していると思います。

この作品で結構強く印象に残っている、御用史家カリステネスの「歴史家は歴史として残すべき重要なことのみを そして歴史家が後世に伝えたいと思うことの みを書く」という台詞をみていると、実際に彼の歴史書についての後世の評価がぴったりと当てはまりますし、リュシマコスの最後の台詞「どっちが生き残って あの人のことを語り継ぐかだ」というところからは、東征に従軍した数多くの人物がアレクサンドロスの遠征やアレクサンドロスについて、自分たちの視点から 色々と書き残していた(そしてそれはほとんど現存せず、わずかに断片などが残るのみ)ということを思い出させてくれます。この辺は、アレクサンドロス研究 および古代史研究の難しさを一寸感じさせられる部分でした。残っている史料の絶対数が少ない上、そのバイアスも考えなくてはいけないというのは非常に大変 ですから。