まずはこの辺は読んでみよう

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デモステネス(木曽明子訳)「弁論集2」京都大学学術出版会

紀元前4世紀、アテネにおいて活躍した政治家にして弁論家のデモステネスは、マケドニアフィリッポス2世を攻撃し、反マケドニア的政策を推進し、親マケ ドニアの弁論家アイスキネスと対立しました。かつて、マケドニアに派遣された同じ外交使節団のメンバーであった両者は2度にわたって激しく争い、最終的に デモステネスが勝利し、アイスキネスはアテネを追われることになります。

彼らは2度の裁判で法廷弁論をたたかわせ、最終的にデモステネスが勝利しますが、、デモステネスの残した長演説が2本存在し、それが今回の「弁論集2」に 納められています。実際に行われた順番と、弁論に振られた番号は逆で、19番の演説「使節職務不履行について」が先(フィリッポス2世の時代)で、18番 の「冠について」はアレクサンドロス大王の時代に行われた演説です。

以下、弁論の順番ではなく、実際に行われた順番で内容を軽くまとめながらかいていくと、前343年に行われた裁判で19番の弁論は行われています。そこ で、デモステネスはアイスキネスを使節任務の虚偽報告、使節任務の不履行(指示通りでない・その時行うべき事を行っていない等々)、アテネの利に反する勧 告、フィリッポス2世からの収賄といったことをとりあげ、アイスキネスはそれに対し反駁、大物政治家の助けを受けてかろうじて逃げ切る(実質デモステネス の勝利に等しい)という展開になりました。

そして18番の弁論が行われた前330年の裁判は、6年前に始められたアイスキネスのクテシフォン告発(この人はデモステネスを顕彰しようとした)がきっ かけであり、アイスキネスに対しデモステネスはカイロネイアの戦いに至るまでの間、彼がどれほど活躍したのか、自分のマケドニアに対する政策が時宜にか なったものであったことを述べることに主眼を置いた弁論(18番)を行った結果、圧勝し、アイスキネスは亡命を余儀なくされます。以上のような展開や、当 時のアテネマケドニアの話は、解説を読むとかなり詳しく書いてあります(ちなみに、この本で扱っている事柄については、澤田典子「アテネ最期の輝き」でもかなり詳しく書かれています。本書と併せて是非読んで欲しい一冊です)。

どちらも、敵であるアイスキネスが如何に駄目な人物であるかを書いていきますが、「使節任務不履行について」より、「冠について」のほうが、よりそういう 傾向が強くなっているように感じました。かつて自分がどれだけアテネのために尽くし、正しい政策をとるよう導いてきたのかと言うことをこれでもかとばかり に書き、冠授与が違法であるというアイスキネス側の別の主張に対しては深入りせずにながし、結果としてアイスキネスに圧勝しています。人間は往々にして、 昔の良かったことは覚えていても悪かった事は都合良く忘れる事がありますが、争点をうまくずらしつつ、昔のことをひたすら語るデモステネスに陪審員もうま くのせられてしまったようにも見えます。

ただ、アテネ市民はデモステネスにそれ程責任があるとは思っていなかったのかもしれないので、単に乗せられただけともいえないかなと思います。カイロネイ アの敗戦直後、デモステネスに対する告発は何度か行われていますが、それは何れも失敗しています。何れも不成功に終わったとはいえ、こうした告発があった と言うことは、アテネ市民の中にはデモステネスに責任があると考える人がいる一方で、それがことごとく失敗していることから、多くはそれでもなお彼を信頼 していた様子がうかがえます。また、市民の信頼が篤かったことは、デモステネスがカイロネイア戦没者の追悼演説を行っていることからも分かると思います。 この裁判におけるデモステネスの勝利は、アテネ市民のそのような感情がもたらしたものだと思いますし、デモステネスを免責すると言うことを公に示した物だ といえるでしょう。

これは裁判において、陪審員達を如何に説得するのかを考えて作り上げられた法廷弁論ですが、古代ギリシアの雄弁術の粋を集めたとも言われるこの弁論は、マ ケドニアという強大な力のまえに、その時出来る最善の手を尽くしながらも結局敗れたアテネという感じで見ることもでき、まるでギリシア悲劇のようなストー リーの展開になっています。いっぽう、悲劇のような感じで読み物として読むと面白いのですが、ここまで必死になってアイスキネスをたたきのめす必要が当時 あったのかと言われると、やり過ぎなんじゃないかという気もしてきます。当時デモステネスは現役の政治家として頑張っていますが、アイスキネスはセミリタ イア状態で対して重要な存在ではなかったようですし。