まずはこの辺は読んでみよう

しがない読書感想ブログです。teacupが終了したため移転することと相成りました。

宮野裕「「ノヴゴロドの異端者」事件の研究 ロシア統一国家の形成と「正統と異端」の相克」

ロシアがモスクワ大公国を中心として統合が進んだ15世紀後半から16世紀初頭、「ノヴゴロドの異端者」と呼ばれる集団が出現し、彼らによりモスクワ大公 国の政治が混乱を来したこともあったと言われています。1470年頃に出現し、1504年に主だった人々が処刑されてから忽然と姿を消すまでのわずか30 年間程度しか存在しなかったとされる彼らについて、これまでも多くの研究が行われています。

しかし、これまでの研究では、彼らについて教会関係者が記した史料の中身を、そのまま客観的事実として受け取って論じていたのに対し、本書では誰が誰に対 して「異端者」と読んでいるのか、どのような人が「異端者」と呼ばれているのか、そして「ノヴゴロドの異端者」という集団は存在したのかといったことを、 関連資料を丹念に読み込み、さらに史料の成立経緯にまで踏み込みながら検討し、「異端者」とロシア国家の発展の関係を探ろうとします。そして、「異端者」 が問題となった1490年、1490年代前半(1492年頃)、16世紀初頭の3つの段階で、どのような人々が「異端者」と呼ばれたのか、だれがそのよう に呼んだのかが本書の中で明らかにされていきます。

まず、1490年にノヴゴロド主教ゲンナージーが「異端者」告発を行った頃は、モスクワによるノヴゴロド併合からまだ日が浅く、ノヴゴロドとロシアの対立 関係が続いていた時代でした。ノヴゴロドの現地聖職者に告発され(しかもそれがモスクワ大公の耳に入っている)、不安定な状態に陥ったゲンナージーが、告 発側を「異端者」として告発したということが実情で、「異端者」として告発された人々は雑多な人々であり、「異端者」という一つの集団を作っていたわけで はないことが示されていきます。ここでいったん「異端者」の件は区切りがついています。

その後、1490年代前半、「啓蒙書」という本を書き、「ノヴゴロドの異端者」について様々な情報を残した修道院長ヨシフの問題が扱われます。1490年 の出来事とヨシフによる告発は全く別にもかかわらず、ヨシフによって意図的に結びつけられたうえ、さらに新たな主張(七千年終末論を巡る諸議論や修道院批 判)が「異端者」の主張として追加されていったことがしめされます。そしてヨシフが「異端者」を持ち出したのは対立関係にあった府主教ゾシマを追い落とす ためで、「啓蒙書」はゾシマ告発の書であったことが論じられていきます。

3つめの1504年の「異端者」処刑の件ですが、これも「異端者」のレッテルを貼られた人々に共通する何かがあるわけではなく、従来理解されていたような 「異端者」の関与による国政混乱のような事態はなかったことが示されていきます。当時対リトアニア外交・戦争や修道院領の没収、さらにモスクワ大公位継承 など様々な問題が発生し、それに対処するために「異端者」として複数の人々を告発することが行われたことが示されていきます。失敗や政策変更に伴う処罰を 下す際に、「異端者」というレッテルを貼ることが効果的だったようです。また、これ以降モスクワ大公と教会の関係がより緊密化し、相互に補完的な関係がう まれたことから、「異端者」問題はロシアの統合・発展の歴史において意味を持つことが示されていきます。

本書「はじめに」の部分で「ノヴゴロド」の異端者についての通説的な内容を読んだときには、「ノヴゴロドの異端者」という集団が、ロシアの歴史にどのよう に関わったのかをまとめているのかと思いましたが、「異端者」として告発された個々の人々について細かく検討し、きわめて雑多な人の集まりで、一つのまと まった集団が存在したわけではないことや、時代によって全く違う人々が「異端者」として告発されていることが本書ではまとめられています。

昔の歴史研究だと、一つのまとまった集団・党派の存在や、党派どうしの対立といったことをよく見た記憶がありますが、最近では党派の構成員と見られる人々 を個別に検討していく事が多いようです(「アテネ最期の輝き」なんかもそうでした)。研究の深化とともに、そのような傾向が強まっているようですが、歴史 の中の“個人”について知ることは難しく、ついつい何かしらのレッテルを貼ってひとまとめにして理解したくなるのも分かる気がします。安易な解釈に逃げる か、さらに踏み込んでいけるかが、素人の歴史好きと専門家を分けるのでしょう。

史料に「異端」という言葉が登場するところを集めて「異端」とは何か、「異端者」とは何かを論じるのではなく、誰がどのような状況でどのような人を「異 端」と認定するのか、その過程をおいかけていくと、「ノヴゴロドの異端者」の問題は単なる宗教対立ではなく、きわめて政治的なものであることがかなり分か りやすく(専門書なのでかなり細かい論証が間に入りますが)まとまっていて、全体を通して非常に面白く読めました。