まずはこの辺は読んでみよう

しがない読書感想ブログです。teacupが終了したため移転することと相成りました。

マルコス・アギニス「マラーノの武勲」作品社

1639年、南米のリマで行われたアウトダフェ(異端審問判決式)において、フランシスコ・マルドナド・ダ・シルバという人物が火あぶりの刑に処されまし た。本書はフランシスコ・マルドナド・ダ・シルバの生涯を題材とした小説です。マラーノ(「ブタ」を意味する言葉で、改宗ユダヤ人のことを指す)として生 きてきた彼の波乱に富んだ人生と、彼を取り巻く様々な人々の関係、そしてイベリア半島ユダヤ人のたどった苦難の歴史が、上下2段組で500頁以上という ボリュームの中に詰め込まれています。

様々な人との交流、父親との再会などをへて、彼はユダヤ教徒としての自分を再確認し、己の信仰に忠実であることを選んだがために異端審問に掛けられ、長き にわたって獄中にとらわれ、最後は火あぶりの刑に処されることになります。そうなる前の彼は、修道院で勉学に励む機会を与えられさらにリマにて医学を修め 学位を取得、医者として町の名士とも交流を持ち、ついにはチリ総督(代理)の娘と結婚するという、非常に恵まれた人生を歩んできました。

その間に彼自身は修道院で堅信を授けられてキリスト教徒として生きることになった物の、様々な人々との交わりや父との再会を通じて、自分のあり方に疑問を 抱き、ユダヤ教徒としての自分を再確認することになります。ただし、彼の場合は様々な思索の果てにユダヤ教徒としての自分を見いだしたと言うこともあり、 信仰に篤いが、非常に理性的な印象を受けますし、その印象は彼と対決する異端審問官たちの頑迷ぶりと対比されてより強く感じられます。

彼が異端審問官にとらえられてからの話が、過去の話の合間に挟み込まれる形で第1章から第4章まではすすみ、第5章では異端審問官たちとの闘い(といって も、言論によるものですが)がえがかれていきます。第5章の内容だけを独立させて一つの話を作ることも可能だとはおもいますが、第1章から4章を通じて、 彼がどのようにしてユダヤ教徒としての自分を再確認したのかがたっぷりと描かれていることには大いに意味があると思います。彼は乗りや勢いではなく、長年 の思索の果てにユダヤ教徒となったからこそ、あれだけ過酷な環境にも耐えられたのでしょう。

人が生きていく過程で、様々な困難に直面し、その時に信念を曲げずに生きることはきわめて困難で、現実と妥協し、折り合いを付けて生きていく人が多いと思 われます。この物語でも、フランシスコの父親が異端審問の拷問に屈したり、ユダヤ系のひとがユダヤ教を捨てて表向きはキリスト教徒としてくらしている場面 は多々見られます。フランシスコ自身も修道院の教育の成果により、途中まではキリスト教徒として生き、きわめて恵まれた生活を送っていました。にもかかわ らず、彼はそれらすべてを捨て、長い思索の果てに確立された己の信仰に従うことを選びました(それによって妻や子どもを苦しめてしまったことに対しては、 批判的な意見を持つ人もいると思いますが…)。

そんなフランシスコの姿に感動を覚える一方で、同じく“信念を貫く”異端審問官に対してはおぞましさを覚えるのは、自由・寛容の要求と信仰の強制という、 依って立つ物の違いがあるかもしれません。読み終わった後で、信念を貫くという行為だけでなく、その信念の中身も実は重要なのではないかという感想を抱き ました。

非常に膨大な内容を盛りこんだ物語で、一つの出来事を複数の視点から描き出すなど、色々な技巧も凝らしてあり、非常に面白く読めましたが、もう少し踏み込 んで欲しかったなと思うのが、フランシスコの友人でありリマまで一緒に旅をしたロレンソ・バルデスについてです。彼は一時はフランシスコにたいし「マラー ノ」という侮蔑表現を浴びせたりしていますが、それが一転して友人関係に戻り一緒に旅をすることになるなど深く関わっています。最後、フランシスコが火あ ぶりになるときに複雑な表情でその様子を見守っていたロレンソがどのような思いを抱いていたのか、彼の内面をもう少し掘り下げた場面があると良かったので すが、それは無い物ねだりか。

ちなみに、イントロを読むと話の流れがほとんど書いてあるので、ネタバレ(最近これを気にする人は多いですよね)が嫌な場合は、イントロ部分はとばした方がよいかもしれません。しかし、そうだとしても、イントロから読んだ方が良いと思いますが。