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しがない読書感想ブログです。teacupが終了したため移転することと相成りました。

イアン・ショー「古代エジプト」岩波書店(1冊でわかる)

古代エジプトというと、ピラミッド、ツタンカーメン等々、一般にも広く知られている事柄がありますし、ミイラ関係の展覧会は日本でも頻繁に開かれています。王や貴族の墓や神殿といった事柄については目にする機会が多く、個別の王様については結構有名人もいる一方、古代エジプトの社会や政治、経済について詳しく知っている人はあまりいないのではないでしょうか。

 

本書ではナルメル王のパレットという遺物の図像の解説から始まり、古代ギリシア・ローマ、聖書からはじめて、近代のエジプト学成立に至る過程をまとめ、最近の研究動向として年や集落の研究が活発化していることがふれられています。

 

次の章ではエジプトに関する発見や新しい科学技術や学問の応用によるエジプト研究の成果について触れています。なお、石材と比べ土器のほうはそれ自体がエジプト学の一分野を形成するほどに発展しているのは石材がいろいろな分野にまたがるのにたいし、土器は一分野として研究できることが関係しているようです。

 

第3章では研究に用いる考古資料・文字資料の問題や、それらに加えて年代決定に際して科学的年代測定を組み合わせて編年の枠組みを与えようとしてきたことがふれられています。政治の変化と比べ、社会や経済、文化の変化はゆっくり進むことが遺物からも見て取れるようです。

 

第4章では文字を扱い、ヒエログリフが従来思われていたよりも前の、先王朝時代中期(前3500頃)に使用されていること、表音文字も前3200頃には使われており、先王朝時代の官僚はすでに表意・表音文字としてヒエログリフを使っていたことがまとめられ、文字システム、官僚制度、記念碑的建造物、交易や経済統制のシステムなどが第1王朝以前にすでに出そろっていたことが述べられています。

 

第5章では王権を扱い、王のステレオタイプ化について、運動能力に優れたアメンホテプ2世、女王鳩シェ婦ストについての諸々のステレオタイプ、そして在位末期にすでに「生きる伝説」化し、後にエジプト王権と密接に結びつけられたラムセス2世を扱っています。

 

第6章ではエジプト人の自己認識として、文化的特徴によって自己と他者を分けていた事が述べられ、最近のアフリカ中心主義的な見方に対して、そもそもエジプトに「人種」の概念があったのかどうかという点を指摘しています。そのほか、ジェンダーセクシュアリティについてもふれられており、最近この分野の研究が進んできた事が少し述べられています。

 

第7章は死や埋葬に関することで、通常のエジプトの本では墓のことやミイラのことが詳しく扱われるところですが、この本ではオシリス信仰やエジプト人の来世観をあつかいつつ、ミイラについてもふれていきます。

 

第8章は宗教を扱い、エジプトの宗教では、マイナーな神々への信仰はより一般的な信仰や王が好む信仰に吸収されていく事が指摘されています。また秘儀や天啓を支える神話・儀礼・神殿建築がある、というエジプト宗教の理解や、犠牲や供物、男根中心主義の傾向、エジプトの倫理観等にふれていきます。なお、王と宗教の関係は神にかわって戦い、捕虜や戦利品を集め、それを供えるのが王のつとめというものだったようです。

 

第9章では学問的なエジプト像とは別の「もう一つのエジプト」像が同居し、映画とか小説、怪しいえせ化学、観光みやげ等々にそれが表れている様子がまとまっています。

 

以上のような内容を含む本書ですが、どの章もナルメル王のパレットを材料として話を始め、そこから個別のテーマが展開されていくという構成になっています。ナルメル王のパレットは本書にも書かれているように発掘を巡る状況がかなり怪しく、まともな記録が残っていないという問題点がありますが、たった1枚のパレットからこれだけの情報が引き出せるのかと感心しました。資料はそのままでは何も語らないけれど、こちらから働きかけることによっていろいろな情報を引き出すことができるということがよくわかると思います。

 

入門書ということになっていますが、コンパクトでありなおかつ内容がしっかりとした本であり、巻末の読書案内も併せて読むと、単なる王朝の歴史や個々人のファラオの逸話だけではないエジプトの歴史について知ることができるようになっている本だと思います。

 

また、最終章では「もう一つのエジプト」学者(グラハム・ハンコックなどの類)についてもふれているのですが、はじめに答えありきで都合の良いデータを集め、都合の悪いデータは無視するという彼らの姿勢を笑うことはたやすい事だと思いますが、往々にして彼らの主張が人々の賛同を集めてしまうのはなぜなのでしょう。はじめに結論ありきというところがわかりやすさとしてとらえられるということと、権威に対する挑戦という形でとらえられていることが関係するのでしょうか。古代エジプト人の残したモノを現代人が勝手に読み替え都合よく使っている様子を見ると苦笑せざるを得ません。