まずはこの辺は読んでみよう

しがない読書感想ブログです。teacupが終了したため移転することと相成りました。

屋敷二郎「フリードリヒ大王」山川出版社(世界史リブレット人)

「君主は第一の僕」、この言葉は啓蒙専制君主について学ぶ際に必ず出てくる言葉です。発したのはプロイセン王国国王フリードリヒ大王、オーストリア、フランス、ロシアを敵に回した七年戦争で危機にさらされながらも最終的に勝利を掴み、プロイセンをヨーロッパ第5の大国へと引き上げ、啓蒙専制君主としてプロイセンの国内を整えて発展させた(一説にはジャガイモ導入は彼が関わっているとも言われます)、そんな君主です。

本書では、フリードリヒ登場以前のホーエンツォレルン家の発展とプロイセンの状況をまとめた後、フリードリヒの生涯を扱っていきます。シュレジェンを奪取したオーストリア継承戦争、啓蒙専制君主としてプロイセンの統治に力を尽くす姿勢、そして本書の著者が法学の人ということもあってか、プロイセンの法制度や裁判のこと、司法改革などが詳しくとりあげられています。さらに結果として勝利したもののプロイセンの人口の1割を失うことになった七年戦争とその後の戦後復興などにも触れていきます。

興味深いことを幾つかあげてみたいとおもいます。まず、フリードリヒ2世というと王子時代に父王フリードリヒ=ヴィルヘルム1世と反りが合わず、父親からは一時期は相当手酷く扱われた時期があり、そのような状況下で彼が友人と国外逃亡を企て、友人が処刑されたという出来事が伝えられています。

この出来事が単なる若気の至りで済まされないおおごとになっていった背景として、当時のプロイセンの政界で英仏につこうとするものたちと、皇帝につこうとするものたちの間での権力闘争があり、フランスからイギリスへと逃亡しようというルートをとり、実際に友人の一人がイギリスへ亡命したこともこうした権力闘争の材料として利用されていったことが示されており、非常に興味深いものがありました。単なる王位継承者と皇帝などとの対立と勢いに任せた出奔としてでなく、当時の政治状況などをもとに説明された箇所は面白く読めました。

また、プロイセンというと、宗教的寛容の話がよく出てきます。ルイ14世がナント勅令を廃止したために居場所を失ったユグノーを受け入れ、プロイセンの発展に尽くしたということが知られています。しかしプロイセンの「宗教的寛容」はその頃に始まったというわけではなく、すでにプロテスタントルター派)を受け入れた国家でありながら、カトリック教徒の存在も認め、さらに君主がカルヴァン派に回収しながらも臣民にそれを強要しないというアウクスブルクの宗教和議の原則と逸脱したことを行っていたりします。

このような「宗教的寛容」はかつては上から強要されるようなところがありましたが、フリードリヒ大王の治世ではパンテオンのような施設をつくるのでなくカトリックの教会を作らせるなど、さらに進んでいきます。「寛容の国」を作っていった様子がまとめられています。

そのほか、フリードリヒというと『反マキャヴェリ論』を著したことでもしられていますが、本書によると、この作品を丁寧に読むと、フリードリヒがシュレジェン奪取したことは彼の中では極めてまっとうな論理に基づいている行動だったことが明らかにされています。一見するとマキャヴェリズムを批判するような本に見えますが、本書によると、『反マキャヴェリ論』では継承権をめぐる戦争と予防戦争は正義と衡平に則った戦いであるという旨のことが書かれているそうです。

継承権をめぐる争いはそもそもが一理あるが異論の余地のあるもので、戦争で決着をつけようということを論じていたり、予防戦争も覇権国家の出現を予防するためには正当化されるということが述べられているなど、きちんと『反マキャヴェリ論』を読んでいればオーストリアはプロイセンの動きを相当警戒した可能性が高かったであろうという指摘が本書には見られます。中身を読まずタイトルだけを見て批判するということの危険性がよく分かる事例です。

人民、国家に対する義務感が様々な事柄を貫く一つの筋とし、出版や婚姻、信教の自由や拷問の廃止など啓蒙主義的な諸改革、産業の育成に取り組み人民の共通利益を追求する国王としてのフリードリヒの姿を描き出しつつ、プロイセンが強国として台頭していく時代の中に彼を位置づけて行こうとしている一冊だと思いますし、興味深い内容がいろいろ含まれています。