まずはこの辺は読んでみよう

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橋場弦「古代ギリシアの民主政」岩波書店(岩波新書)

古代ギリシア、特にアテナイで発展した民主政は平等な市民が順繰りに支配・被支配を経験するという点でかなりめずらしい体制のようです。一方、古代ギリシアの哲学者や著述家たちからかなり否定的な捉え方がされ、古代の文献を読める後世のエリート層に反民主主義の伝統を伝え、民主政に対する批判的傾向は現代においてもみられます(近世や近代のエリート層が君主政でない体制を想起する時、ローマ共和政を範とすることはありますがアテナイ民主政を手本とすることはなかったようです)。

本書はアテナイ民主政を古代のアテナイ市民たちの生活と分かち難く結びついたもの、「教わるもの」でなく「生きるもの」としてとらえ、この政治の仕組みがどのようにしてアテナイで形成され、続き、終焉を迎えたあと後世に知られるようになっていく、その歴史を描いていきます。アテナイで民主政がどのように出来上がっていったのか、そして民主政が確立し、安定していく過程で何が起きたのか、それがどのようにして終わりを迎えたのかという通史的なパートと、民主政を支える仕組みや制度、民主政と市民生活の関係、民主政のアテナイ以外への広がりなどを掘り下げるパートから構成されています。例えば市民生活と政治の関係ということでは国政の場より小さな地域単位(区)での政治経験が国政にも重要な意味を持つ事が示されています。区がいわばポリスのミニチュア版のような存在となり、そこで経験を積むことが国政にも生かされるということのようです。

古代ギリシア史というとどうしてもアテナイが中心のように見えてくるところがありますし、実際教科書などではアテナイの事例が大部分を占めています。史料的制約もあるのですが、本書ではアテナイ以外の民主政、アテナイ以前の「民主政」のようにみえるものにまで目が向けられています。アテナイ以前に他のところで見られた「民主政」のようなものについては、それは貴族政の問題点を是正し「善き秩序」の回復を図る試みではあっても民主制とは違うという捉え方をしています。いっぽうでアテナイ民主政は他の地域にも影響を与え、民主政を支える思想や民主政でもちいられた技術や道具といったものが他の地域にも伝わっていることも示されるほか(ソフィストたちの果たした役割にも言及しています)、他のポリス(アルゴス、テバイ、シラクサ小アジアの都市)における民主政についても頁を割いています。

そして、アテナイの民主政がいつ終わったのかについて、彼ら自身はヘレニズム時代においても民主政存続を願い、スケールの縮小や形の変貌を伴いながらも続いています。そしてローマの支配下においても理念、形だけはそれが残り続けていたことも示されています(本当に形式的な文言のみの碑文が存在している)。現実はどうであれ、アテナイの人々にとり民主政というものは決して手放したくないものとなっていたようです。

著者は古代ギリシア史、とくに民主政アテナイの専門家です。本書より四半世紀ほど前に「丘の上の民主政」(東大出版会)で参加と責任のシステムに基づくアテナイ民主政について描き出しています(これは講談社学術文庫に入っています)。本書はそれ以降の新しい研究成果を取込みながらアテナイの民主政について描き出していきます。市民参加のシステムの実態として、民会、評議会、裁判所、陶片追放をとりあげ、これらがどのように運営されたり実施されたりしていたのかをまとめています。例えば陶片追放について、一般的に言われている僭主になりそうなものを追放するという従来説にかわり、最近では有力者の対立に際しどちらか一方を退去させることで対立がエスカレートし内戦に発展するのを防ぎ、ポリスへのダメージを抑えつつ統合と安定を保つ方策として捉えられているます。また、「衆愚政」についても民主政に批判的な書き手によるレッテルであり、アテナイの民主政の黄金期はむしろ「帝国」でなくなった後のことだと指摘しています。これらのことは知っておいて良いと思います。

ポリスの統合、安定を重視するということでは、陶片追放以外にもそれを思い起こさせる事柄が見られます。市民の陪審員による裁判を見ても、真理の追求よりもその都度最も公平な形で紛争を収め社会を安定させる事が重視されています。また、ペロポネソス戦争の後、民主政が復活した際には寡頭政勢力と和解していますが、復讐より統合、共生を進める方向で動きます(一般民衆の感情的には許し難いものがあり、それはソクラテス裁判のような形で出ることもあったようですが)。

おわりにでも取り上げられていますが、本書で鍵となるのが「分かちあう」ということだと思います。アテナイ民主政ではトップ不在・無頭性の原則、代表制をとらない、警察権力不在、情報の公開といったことがみられますが、これらもまた特定の個人に権威や権力が集中することを防ぎ、皆が政治に参加し責任を負うことや治安を担ったことがそこに現れているようです。そして、だれか代表に任せるのではなく、市民が等しく政治に参加し、兵役や財政負担などの負担を皆が負うことがポリス人々の包摂・統合につながるということのようです。ポリスという一つの共同体のまとまり、安定を重視する、それがアテナイの民主政のいろいろなところに現れているように読んでいて感じました。そこをよしとするか、なんとなく生きづらいと思うかは人それぞれでしょう。ただ、どのように社会やコミュニティを維持するのかを考えるときにはこのあたりは考えなくてはならないことだと思います。その一つの事例として参考になるかもしれません。

骨組みとなる部分は著者の他の著作(『丘の上の民主政』)から引き継ぎつつ、近年の研究成果も採り入れて新たにまとめられた古代ギリシア民主政の入門書として、これから先、古代ギリシアに興味を持つ人におすすめしたい一冊です。